鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
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注⑴板倉聖哲「幕末期における東アジア絵画コレクションの史的位置-谷文晁の視点から」『美術史論叢』28号、2012年。河野元昭『文人画往還する美』思文閣出版、2018年、第22章「関東南画の確立と展開」(初出は1976年)。あった可能性がある。溱水と親しかった書家の趙陶斎(1713~86)が宝暦頃に江戸から大坂へ移ったことも注目される(注29)。『玄対画譜遺稿』は玄対生前から準備されており、模刻の掲載も玄対の遺志と思われる。「南画の大成者」たる大雅の最晩年に間に合ったことは、玄対の誇りだったに違いない。そして、大雅への思慕の念は、玄対の実作品にも表出しているように思われる。例えば、玄対筆「日月山水図」(個人蔵)〔図16〕は、前景に樹木の生える岩場、中景に水景が広がり、遠景は雲が棚引く奥に丸みを帯びた山が屹立する画面構成で、上空には左幅は旭日、右幅は三日日が浮かぶ(注30)。山や岩は緑青と群青で丁寧に彩られる。本作の見所は左右幅での対比にあると言え、日月はもとより、異なる描法が採られた前景の樹木である。右幅は根上の松で、幹は曲がり、枝も左右上下自在に伸びる。『芥子園画伝』にみる李成の松〔図17〕を思わせる形状だが、直接的な参照源は『玄対画譜』山水部に載る呉筠の松〔図18〕かもしれない。一方、左幅はねじれた奇怪な幹に点描の葉が付く樹木〔図19〕で、その祖型もまた『芥子園画伝』にある巨然や呉鎮風の古柏に求められるが〔図20〕、点が楕円を描くように集積し葉叢を形成する描法は、同時代的には大雅の樹法と認識されていたのではなかろうか〔図21〕。なお、玄対は天明4年に江戸滞在中の木村蒹葭堂(1736~1802)と面会したこと(注31)、また晩年の文化14年に京に滞在したことが判明しており(注32)、ポスト大雅の京坂画壇とも関係を深めていたことが窺える。おわりにかえて以上、伝記的事実の確認に終始した感は否めないが、今回示した玄対の作画活動のあり方は、武家社会の文人趣味、江戸周辺に広がるサロン文化、画譜・古画学習の実態、東西画壇の交流といった「関東南画」の特質を掴むための課題に取り組む端緒になり得ると考える。今後の目標として作風変遷の検討を含めた玄対研究の深化、そして「関東南画」をめぐる玄対前後の世代との比較を挙げ、本稿を終えたい。⑵玄対の伝記資料に、麻布・光林寺にある渡辺溱水と内田鵜洲の墓誌(前者は文化13年、後者は寛政9年。磯ケ谷紫江『墓碑史蹟研究』6巻、1928年、733-737頁)、『林麓耆老娯観』(文政2年)所載の村山芝塢の跋と「林麓寿宴詩書画名詩氏録」、『玄対画譜遺稿』の三井林泉による跋(天―359――359―

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