会した(注14)。雑誌『歓喜と労働』には本展の紹介記事があり、作品図版9点が掲載されている(注15)。前述したドイツ語リストと照合すると、9点中5点のみが一致する。左ページ〔図1〕の下2点は今村紫紅の屏風《獅子》と思われるが、右ページ〔図2〕の下2点は、今回の贈呈とは別の機会に贈られた作品と推察される。このうち右下の作品は1938年7月に日本機械工業会社取締役渋谷正吉によってヒトラーに贈られた龍駿介による富士図であろう(注16)。左下の版画作品は吉田博《風静》(1937年)と考えられるが、本作がどのような経緯でベルリンにあったかは不明である。いずれにしても、この展覧会には藤原が用意した日本画作品と井坂がヒトラーへ贈呈した紫紅の屏風、さらにこれ以前にドイツへ贈呈された作品が合わせて展示された可能性がある。また右ページの中央に配されている円形の写真は紫紅《獅子》を4人の人物が鑑賞する様子を捉えたもので、おそらく右から二番目の人物はキュンメルである。キュンメルがこの展覧会や贈呈のプロセスにどれほど関与したかは判然としないが、少なくとも受贈の代表者として関わっていたことがわかる。4.ケルン東アジア美術館への移管藤原はメキシコ視察なども経て12月12日に帰国した。その翌日にはオット大使が藤原を訪ねてリッベントロップ外相からの贈呈に対する謝礼の電報を伝えた(注17)。以後、本作品贈呈に関する情報は日本側には認められない。おそらく日本の関係者は、贈呈された日本画作品がそのままベルリンの国立博物館に収蔵されたと考えていただろう。だが、作品はその後ケルンへ移されていた。1940年2月9日に文部大臣ルストがケルン行政管区長レーデアに宛てた書簡の一部を引用する。 私はこの作品61点について、現代日本画をほとんど所蔵していないケルン市立東アジア美術館への収蔵を考えている。ケルン市長にその旨連絡し、市長がこの寄贈作品を受け入れるかどうかを私に報告してほしい。絵画の移送はベルリンの国立博物館総局が順次手配する。作品はケルンの美術館へ最終的に移管する前に、ケルンだけでなく、ハンブルク、ミュンヒェン、フランクフルト、ライプツィヒ、ウィーンで展示される予定である。この展覧会はベルリンの日独協会が担当する。(注18)つまりこの頃、ベルリンでは受贈作品を保持しない方針へと転換した。当時すでにベ―27――27―
元のページ ../index.html#37