鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
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保5年)、『雲室随筆』(『続日本随筆大成』1、吉川弘文館、1979年)がある。以下、本稿はこれらに拠る。併せて平井良直「『林麓耆老娯観』の分析と考察~化政期江戸文人寿宴の一断面~」『相模女子大学紀要(人文・社会系)』66A、2002年参照。⑶仙佛・花卉翎毛部2冊は、次男・陶丘の『林麓娯観(辺氏雑集画譜)』(文化2年成立)と合わせた3冊本での刊行が確認できるが、当初の発刊形態かは不明。⑷坂崎坦編『日本画談大観』上編、目白書院、1917年、414頁。⑸拙稿「渡辺玄対筆「蕉夢庵景勝図画詩文合巻」(宇土市教育委員会蔵)の制作について」『畫下遊樂二奥平俊六先生退職記念論文集』、藝華書院、2018年。⑹山口泰弘「増山雪斎の中国趣味」『江戸の風流才子増山雪斎展』、三重県立美術館、1993年。伊藤紫織・玉蟲敏子「「宴遊日記」に見る絵画活動」『江戸の異国趣味-南蘋風大流行-』、千葉市美術館、2001年。⑺『文人大名真田幸弘とその時代』、真田宝物館、2012年、図13。⑻『御側御納戸日記』寛政10年12月26日条(信濃国松代真田家文書、国文学研究資料館寄託)。同資料は真田宝物館学芸員・米澤愛氏にご教示いただいた。⑼井上敏幸「真田幸弘の俳諧-追善集『ちかのうら』-」『松代』16号、2002年。⑽市河三陽「市川寛齋と其周圍-詩人と畫家-」『芸苑』1巻4号、1919年。⑾辞書類は陶丘を宝暦11年(1761)生まれとするが、溱水墓誌に長男・赤水の誕生は安永5年(1776)秋とあるため、誤りと思われる。⑿『古画備考』第二十六巻名画十四に、嫡子は赤水、二男は玄輝、三男は素行不良の元僧侶、陶丘は物故という情報が載るが、この二男・三男は故人の陶丘を飛ばした順で実際は三男・四男を指すと思われる。四男は『雲室随筆』に言及されず、タブー視されていたと思われる。⒀注⑷前掲書80-82頁⒁河野元昭「金井烏洲著『無声詩話』関東南画展開論」『関東南画のゆくえ江戸と上毛を彩る画人たち』、群馬県立近代美術館、2021年。⒂『辺氏画譜』(東京藝術大学附属図書館(脇本文庫)蔵)のデジタル画像が国書データベースにて閲覧できる(書誌ID 100288913)。⒃『江戸文化シリーズNo.21関東南画大集合』、板橋区立美術館、2005年、図10。⒄東京国立博物館蔵1幅、ファインバーグ・コレクション1幅、個人蔵2幅。⒅市河三陽「高橋道齋」『上毛及上毛人』164号、1930年。同氏「市河寛齋先生(七)」『書菀』4巻2号、1940年。⒆寺石正路『高陽山人』、土佐美術協会、1927年、31-32頁など。⒇許秀美「国立国会図書館所蔵「朝鮮筆記」について-合綴された諸資料に関する考察-」『大谷学報』91巻2号、2012年。朴晟希『博士学位論文18・19世紀における日韓絵画交流史の研究-朝鮮通信使と東莱倭館の絵画活動を中心に-』、東京大学、2019年、167頁。高島淑郎訳注『東洋文庫662日東壮遊歌』、平凡社、1999年、308-310頁。田中喜作「高陽尺牘」、『美術研究』33号、1934年、35頁。『盛岡市史』第4分冊、盛岡市、1950年、64-65頁。同書別篇人物志、1954年、73頁参照。注⑴前掲載河野書籍第23章「文晁と藍瑛」(初出は2001年)。河野元昭「研究余録」『美術史論叢』18号、2002年。『鼠璞十種』第二、国書刊行会、1916年、30-31頁。『玄対画譜』の影響は池澤一郎『雅俗往還-近世文人の詩と絵画-』、若草書房、2012年、第19章―360――360―

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