㉞ 宮宿における景観イメージの変遷と広重の名所絵研 究 者:名古屋市博物館 学芸員 津 田 卓 子はじめに尾張国宮宿(正式には熱田宿、現愛知県名古屋市)は、熱田社の門前町かつ東海道の宿場であり、名古屋城下の町続きであるために、尾張において絵画作例が比較的残る地域である。しかしながら美術史においては歌川広重(1797~1858)「東海道五拾三次之内」(以下保永堂版)を含めた、いわゆる東海道物のうちの一図として言及されることが多く、いわば揃物を構成する要素として語られてきた。本稿は宮宿の景観イメージの変遷を明らかにした上で、地域資料と比較しながら広重作品の再評価を試みようとするものである。1 宮宿の景観イメージ 広重以前まず宮宿(熱田)が描かれる場合、どの場所が描写対象として選択されているのか、モティーフ毎に分類した〔表1〕。広重ら江戸時代後期の浮世絵師が諸資料を参照しながら作画した事実を踏まえ、対象は浮世絵にとどまらず、東海道図屏風(絵巻)、名所案内記、道中記、地誌、その他文芸作品まで広げている。ただし尾張の絵師が描いた作例は別に区分した。局所でなく全国的に普及した景観イメージを浮かび上がらせることを目的に据えたためである。調査結果をまとめるに、東海道図屏風の諸作例では、概ね常夜灯のある船着き場と熱田社が選択され、なかでも海上にせり出すように設けられた尾張藩の客館、東浜御殿の存在が大きい(注1)。道中記や地誌においては、熱田社・海上をゆく渡し船・断夫山・笠寺観音が挿絵に取り上げられている。とりわけ多くの浮世絵師が参照した寛政9年(1797)刊の『東海道名所図会』では「宮駅 浜鳥居」と題し、海上から俯瞰した船着き場を描き、ほかに熱田社(熱田神事)と八剣宮周辺・断夫山・笠寺観音といったランドマークが選択される。さらに加えて「桑名渡口」として背景に桑名城を擁した渡し船が大きく描かれることを確認しておきたい。つづいて浮世絵の場合、一地方にすぎない宮宿が(尾張国外において)一枚物の錦絵で取り上げられるようになるには東海道物の誕生を待たねばならないが、それ以前の景観イメージを、コマ絵という限られた画面であるゆえに画題取捨選択の特色が表れやすい道中双六でみていくこととする。〔表1〕No.12~No.16にあるように、その多くが海上をゆく船、あるいは常夜灯のあ―365――365―
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