る船着き場を描く〔図1〕。七里の渡しが東海道において随一の距離をほこる船渡しであるため船着き場が選択されるのはしごく当然であるが、ここで留意しておきたいのは、すべて海上から眺めた視点をとることだ。これは先ほどみた東海道図屏風や地誌と同じくし、同資料を絵師たちが参照した結果と思われる(なお桑名宿では焼蛤が画題として選択される傾向にある)。十九世紀初め、十返舎一九『道中膝栗毛』の成功を受けて東海道物が陸続と出版されるようになるが(注2)、その先駆者である葛飾北斎もやはり海上を航行する渡し船を繰り返し描いている〔図2〕。比較的早い作例の「春興五十三駄之内 宮」で、渡し船と東浜御殿であろう天守がそびえる城郭を描くのも先例にのっとったイメージといえよう。続く溪斎英泉もまた海上をゆく渡し船と、その背景に隅櫓と城壁を描いており、北斎と似たイメージで同地をとらえていることが分かる。魚屋北渓は『狂歌東関駅路鈴』において船着き場を海上から俯瞰して眺めた景色を描くが、これは『東海道名所図会』の「宮駅 浜の鳥居」を参照したものだろう。総じて、浮世絵における宮宿の景観イメージは「海上からみた渡し船、もしくは俯瞰した船着き場」が定型であったと結論づけることができる(注3)。歌川国貞「東海道五十三次之内 宮之図」はこの推察を補強してくれる。同揃物は女性の背景に保永堂版を引用するが、宮宿ではまだ広重の絵が出来上がっていなかったらしく、国貞は全く別の画題を選択していることが指摘される(注4)。彼は『東海道名所図会』を参照し、海上から俯瞰した船着き場(前景は熱田社の巫女)を描いたのである。それだけ宮宿といえば先述した景観イメージが定着していたといえよう(なお桑名宿でも同様に「焼蛤」を描く)。2 広重が創出した宮宿のイメージ広重「東海道五拾三次之内 宮 熱田神事」(天保7年[1836]頃)は、夕暮れのまちなかで揃いの絞りの着物をきた男たちが馬を追い、疾走させる様子を描写する。彼らの熱気が伝わってくるような躍動感が魅力である〔図3〕。画題としては尾張・西三河地方でみられる、各町村が社寺に馬を奉納する祭礼「馬の塔」の一場面であるが、広重前史の浮世絵において「海上をゆく渡し船、あるいは俯瞰した船着き場」を描くのが定型イメージだったことが明らかになった今では、この主題を選択することの特異性がなおのこと実感される。彼がなにをもって「馬の塔」を選択したかは、ここで詳述しないが(注5)、いずれにせよ、江戸から離れるにつれ、自身に馴染みのない土地をどう描くか悩んだであろう広重が、画題選択において既知の景観イメージ―366――366―
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