から外れ、あえて新たなイメージに挑戦したことをあらためて評価したい。しかし馬の塔はその後、描かれることはなかった。大英博物館が所蔵する「木曾路写生帖」(以下「写生帖」)が彼のターニングポイントとなった。同書は天保8年(1837)の春から夏にかけて京・大坂、丸亀までの大旅行の際に制作されたとみられ、以後、広重が本写生帖を元にして作画していくことが、浅野秀剛により考究されている(注6)。この成果を受けて、あらためて広重が描いた宮宿の作例を通観してみたい。まず「写生帖」によって、広重は江戸への帰途、桑名宿から船に乗って宮宿へ渡っている旅程が読み取れる。いずれもいかにも覚え書きらしい墨線で、簡略ながら的確にモティーフを捉える。本稿に関わる部分は上冊(No.1913,0501,0.291/Jap.Ptg No.1545)に綴じられ、半丁に「四日市」、「桑名」、「宮」の景を描く。「桑名」は手前に渡し船、背景に桑名城の物見櫓を配しており、保永堂版に似通った構図であるが、渡し船が停泊中で乗船客が見えないこと、右手に船着き場と鳥居が覗いている点が異なる。「宮」では保永堂版と大きく異なり、下船し浜の鳥居を越えたあと、船着き場を振り返った視点で描写している〔図4〕。実体験に基づいたと考えれば、いたって自然な画題選択である。それではモティーフを詳細にみていこう。広重は5艘の船が停泊する船着き場をとりあげ、浜の鳥居越しに海上を臨む。中景左には東浜御殿の石垣と隅櫓、右には常夜灯と船番所、そして海上に6艘の船と左右から迫る砂州、遠景には3つの帆が風を受けて立つ。「船着き場」を選択したことのみでいえば、これはむしろ北斎らが描いた既知のイメージに戻るものとみなせよう。しかし、これまでと大きく異なるのは視点が真逆になっている点である。つまり海上から「船着き場を」みるのではなく、「船着き場から」浜の鳥居越しに海を望む構図をとっているのである。従来の景観イメージと異なり、視点を低くとることによって、まるでその場にいて景色を眺めるかのような臨場感が演出されている。3 新たなモティーフの発見ここで中景に表出された砂州について考えてみたい。よく観察すれば東浜御殿の背後から伸びる砂州には田家が、画面右手から伸びる方には樹木が林立している。この描写は、これまで挙げてきた作例には一切登場しない。尾張名古屋には在地の文筆家や絵師による著作物が多く残る。本研究では、尾張藩士であり『尾張名所図会』の編纂にも参画した絵師小田切春江(1810~1888)の『名―367――367―
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