鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
378/604

陽見聞図会』に着目した。本作は尾張の天候や事件、流行、見世物興行などのニュースを年代毎に編集した袋綴装の写本で(公財)東洋文庫の所有になる。初編から六編之上のうち、四編之上(名古屋市鶴舞中央図書館蔵)を除いた十冊を二帙に納める。改装され、各冊縦23.4糎、横16.6糎だが、名古屋の貸本屋大野屋惣八の商品であったことが知られている。さて本稿に関わる記事は第五編巻之下、天保7年(1836)8月の項に収録される。ここに春江の自筆にて「此頃、宮の浜新々田、余程出来す。」との一文があり、つづいて「宮の浜新田」と題して図を載せる。春江は画面中央に水平線をとり、やや西から俯瞰した視点で船着き場と海上を淡彩で描きとめている〔図5〕。これを見るに、東には緑色に塗られた陸地、西には松樹が整然と植えられた堤があり、さらにその間には西側の堤よりは小さい土盛りで区画された干潟が描かれている。船着き場周辺は海浜というよりもはや川筋で、遠景にようやく海らしきものが広がる。そして同図の上部には春江自身の筆によって以下の解説が記される。「当所ハ元来東海道に名だたる七里の渡海、此所より桑名まで海なれ共、ちかき頃ハ次第に新田出来して、桑名まで行にも、かくべつ巾へハ出ず。しかるに此度、辰巳崎辺より熱田の濱辺まで大なる新田出来して、是までの絶景をうしなふにいたる。もしゝゝ新田に此後人家なども出来たらバ、猶さら見所うせて濱辺の常燈明さへ海のためにハならぬやうになりもやせん。アゝおしき事也。」(句読点は筆者)つづいて筆者は名古屋市鶴舞中央図書館蔵の「熱田前開発新田之図」の調査にあたった。本資料は名古屋市史編纂資料のために収集されたもので、「熱田前開発新田之図」と記された袋に入る。七里の渡し場近辺の航路を示したものであるが、これをみるに船着き場周辺には東に図書新田と紀左衛門新田、西に熱田前新田、熱田新田があり、天保9年正月にはさらに熱田前開発新田(作良新田)が完成したことが読み取れる〔図6〕。これらの資料から、既存のイメージからは船着き場からすぐに海が広がる印象を受けるが、広重が降り立った天保8年にはすでに作良新田の工事が始まっており、地元の絵師が「絶景が失われる、ああ惜しい」と慨歎する状態であったことが証される。よって広重の胸中にも新田の存在が強く印象づけられたことが考えられるのではないだろうか。なお尾張では江戸時代初期から新田開発が盛んで、熱田新田が正保4年(1647)、図書新田が正徳3年(1713)、紀左衛門新田が宝暦4年(1754)、熱田前新田が寛政12年(1800)に成立したとみられ、広重が描いているのは築工中の作良新田というより、すでに新地として定着していたこれらの新田と思われる(注7)。「東海道 四十二 宮」(隷書東海道)〔図7〕では『東海道名所図会』を参照しながらも、新田や沖合の帆船などに「写生帖」の要素が見受けられ、世に敷衍したイ―368――368―

元のページ  ../index.html#378

このブックを見る