鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
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メージのなかに自らが実見したイメージを落とし込んでいることに気づく。しかし同図をみるに東浜御殿背後の新田を広重は旧跡の寝覚里と理解していたらしい(『尾張名所図会』によれば東浜御殿内が寝覚里の旧地ともいわれ、また南東隅櫓を寝覚楼と別称する)。いささか誤解があるにせよ、広重の実体験に基づき宮宿のモティーフとして新田が発見されたといっていいだろう。以降、広重はこのイメージに固執し、視点の取り方や人物などで揃物ごとに変化をつけながら繰り返し描いていく〔図8〕。そしてこのイメージは、彼の後継者である二代広重、三代広重のみならず、他派の絵師にも受け継がれていった〔表1〕No.34~No.44、〔図9〕。このことから広重が実体験から生み出した宮宿の景観イメージが、新たな定型となっていたことが導きだせるだろう。4 尾張の絵師による宮宿のイメージ今度は尾張の作例に眼を転じる。地元であるゆえに型にはまらない多彩な景観が展開されるだけに本稿では船着き場に対象を絞って検証してみたい。名古屋を舞台とした膝栗毛物『名古屋見物 四編の綴足』は文化12年(1815)の作であるが、その前編口絵は尾張藩士であり北斎に学んだ牧墨僊が描いた宮宿の船着き場である。北斎による西洋画風版画「おしをくりはとうつうせんのづ」等にならい、額縁風の枠内に陰影を多用し遠近を誇張した景を描く〔図10〕。東浜御殿の背後から芦が生える砂州が見えているが、これは新田を意識したものだろう。尾張の絵師による作例かつ、透視図法を使って景色を迫真的に描くことに心を砕く当図ならではの描写である。ただし視点はやや上から俯瞰し、浜の鳥居は画面左下にちらりと笠木を覗かせるに過ぎない。最後に『名区小景』初編下(弘化4年[1847]刊)に所収する「浜の鳥居」〔図11〕を紹介しておきたい。本書は前述した『名陽見聞図会』を記録した春江が、自ら編纂し挿絵も担当した名所詩歌集。画題のとおり、浜の鳥居を正面から大きくとらえ、左に東浜御殿、右に西浜御殿、船番所、常夜灯を配置する。左右からは樹木が生える新田がそれぞれせり出しており、とりわけ西側の新田の描写、堤上に松樹が林立する表現はまさしく広重の景観イメージを継承するものであろう。絶景が失われると嘆いた春江だったが、新田を含めた広重の新しい宮宿の景観を自己のものとしたのである。おわりに本稿では広重が実体験に基づいて創出した宮宿の景観イメージが後続の絵師たちに受け入れられ、新たな定型となり、さらに尾張の絵師にも還元されたことが確認でき―369――369―

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