鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
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ルリンの国立博物館東アジア部門は少なくとも11点の日本画作品を収蔵していた。1931年に現代日本画展覧会が開催された際、出品作品のうち横山大観や竹内栖鳳らの作品11点が寄贈されたためである(注19)。一方、ケルン市立東アジア美術館は蒐集家アドルフ・フィッシャーのコレクションを元としており、近世以前の作品が主軸であった。藤原が持参した作品と1931年の贈呈作品の作者は多くが重複していたため、ケルンのコレクションを充実させる目的で作品を移管することにしたのだろう。また贈呈作品展の巡回については、外務省のコルプから東京のドイツ大使館へ宛てた1939年10月の書簡においてすでに言及されていたが、実際に巡回先へ打診されたのは1940年3月頃のことであった。ヴィースバーデン行政管区長プロハーゼルが文部大臣ルストへ宛てた3月29日付書簡では、資金の面や戦時下における会場確保の難しさを理由に、フランクフルトでの展覧会開催を断念する旨が伝えられた(注20)。4月にはカッセル芸術協会から展覧会開催を希望する連絡があった(注21)。その後カッセルの市議会員は9月30日付キュンメル宛の書簡において、開会式で出品作品を解説するため何か資料を送ってほしいと伝えた(注22)。これに対しキュンメルの代理(おそらく学芸員ライデマイスター)は1931年の現代日本画展図録を参考として送付し、「作品はほとんど風景画や花鳥画、静物画であるから、作品理解のために特別な解説などは不要である」と返答した(注23)。同図録には矢代幸雄による日本画の解説が収録されているため、カッセルの担当者の助けにはなっただろうが、ベルリン側の対応は素っ気ないものである。その後、カッセルでの展覧会開催を示す資料は確認できていない。5.ケルンでの展覧会贈呈作品が当初の計画通りに華々しくドイツ各都市を巡ることはなかったが、ようやく1942年5月に移管先のケルンで日の目をみた。ケルンの地元紙は5月11日にケルン芸術協会において藤原が贈呈した日本画作品62点の展覧会「現代の日本絵画」が開会し、開会式には再度在独大使となっていた大島浩が出席したことを報じた(注24)。日独の結束を象徴する行事は喜ばしいことであったが、当時すでに市街への爆撃は激化しており、展覧会は無事会期を終えることができなかったようである。ナチ・ドイツ期のケルン芸術協会の活動を詳細に研究したハウグによれば、展覧会は6月15日までの会期が予定されていたが、会期半ばにして会場の天井が破壊され中止となった(注25)。展示されていた作品の行方について示す資料は、ケルン芸術協会とケルン市立東アジア美術館には残されていない(注26)。―28――28―

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