注⑴東海道図屏風に描かれた各宿場のモティーフについては、近年、大石沙織「研究ノート 東海道図屏風に描かれたもの─系統の類別と宿場のイメージ─」『東海道の美 駿河への旅』展図録別冊(静岡市美術館、2023年)でまとめられている。また斎藤司は東海道図屏風に城や御殿が描き入れられるのは、近世初頭において将軍の上洛が繰り返されるなかで資料が成立したためであると指摘し、さらに画中の名所・旧跡についても将軍の視線を意識して描かれていると結論づけている(斎藤司「東海道図屏風・東海道絵巻の基礎的研究(3)」『横浜市歴史博物館調査報告』第5号、横浜市歴史博物館、2009年、29頁)。た。広重が「写生帖」に固執したのは、後年、「自らが目の当たりに眺望した景をそのままにうつすこと」(『富士見百図』自序)を標榜する彼にしてみれば当然の選択であり、等身大の視点で鳥居越しに海上を眺める視点に臨場感を求めたであろうことは理解できる。しかしながら筆者は、浅野が投げかけた重要な問題提起、写生が広重の役に立ったのか、ひいては広重作品のどこに我々は魅力を感じているのかという問題にはいまだ解を得られていない(注8)。保永堂版のイメージソースの同定や、尾張名古屋全体の景観イメージの探索など、残された課題を含めて今後も考察を続けていきたい。⑵『道中膝栗毛』四編(文化2年〔1805〕刊)では、宮宿の旅籠内でくつろぐ弥次郎兵衛と北八が挿絵として描かれており、宮宿のみに限っていえば意外にもその後の影響が希薄である。むしろ船中で小便を垂れ流して大騒ぎとなったり、さらに桑名宿近くの富田村で焼きたての蛤を懐にひっくり返したりする筋立ては、すでに安永4年(1775)、西村屋与八版「新板道中名所双六」において、宮宿で旅籠と七里の渡し、桑名宿で蛤を焼く女性が描かれることを思えば、一九が既知のイメージを筋に折り込んで滑稽譚に仕立てたものといえるのではないだろうか。⑶宮宿の船着き場から桑名方面を見通した歌川国芳「東海道五拾三駅四宿名所 宮・桑名・四日市・石やくし」は異色の作例であるが、これは同揃物が江戸から京へ向かいながら、4つないし5つの宿場を一図に収めるという趣向をとっているからに他ならない。⑷鈴木重三「広重「東海道絵」の展開」『保永堂版広重東海道五拾三次』、岩波書店、2004年、206頁。⑸保永堂版を描くにあたって、広重は種々の地誌を参照したが、宮宿に関しては取材源が判明していない。かといって当時、広重は同地を訪れていない可能性が高く、実見したとも考えがたい。また本稿で縷々述べているように、熱田の「馬の塔」が全国的に知られる祭礼でもないために、何らか地元からもたらされた情報があったことが想像できる。天保15年(1844)刊の『尾張名所図会』では熱田例祭の項目内に取り上げられ、熱田の絵師野村玉溪が走り馬(俄馬)を描く。ただし同書は保永堂版制作時には構想段階であったとみられるために、直接、玉溪の絵を広重が参照したとは考えにくい。筆者は保永堂版のイメージソースが高力猿猴庵『馬の塔図会』(『絵本上雲雀』とも。文政元~3年[1818~20]成立、東洋文庫蔵)ではなかったかと推測している。同書のなかには、宮宿の北に位置する日置村の景が含まれるが、これを見るに熱田社への献馬であること、複数の(本馬ではなく)走り馬が疾走する様、笠木が反った明神鳥―370――370―
元のページ ../index.html#380