鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
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謝辞本稿執筆および挿図の画像掲載にあたり、各所蔵者にご高配を賜りました。末尾ながら謝意を表します。居(熱田社ではなく日置村にある顕性寺。本来、熱田社の鳥居は神明鳥居)が共通する。猿猴庵の自筆本が貸本屋大惣の商品だったこと、抄出本も含め写本が遺存することから、未刊行本ながらそれなりに知られていた著作とみられ、広重が尾張の書肆などを通じて情報を入手していたと考えてもおかしくはない。ただし彼らが手にする団扇が棒となるなど、一致しない部分もあるため慎重に判断した上で他日、別稿にまとめたい。⑹浅野秀剛「大英博物館所蔵、広重筆「木曾路写生帖」をめぐって」『大和文華』122号、大和文華館、2010年、19~34頁。⑺野田千平「「七里の渡し」考」『文化財叢書』第60号、1973年、61頁・115~119頁。また同論考によれば七里の渡し場は遠浅で、干潮時には大きな船が着港することが困難であった。江戸時代を通じて竣工工事が度々行われたが、沖に大型船が停泊するための保田〈ぼた〉と呼ばれる場所が設けられていたという(前掲野田論文、38~42頁)。広重画にみられる、沖に浮かぶ船は、保田を意識したものかもしれない。⑻「広重は旅をして、写生をして自らのストックを増やしたのはいいとしても、穿った見方をすればそのせいで、平板な作が増えたというみることもできる。(中略)そのことを我々は、じっくり腰を落ちつけて考えてみる必要があるだろう。」前掲注⑹論文、34頁。―371――371―

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