鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
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十二神将像は像高それぞれ70cm程度。頭部に動物の標示をつけるが、いずれも大正期に新補されたものである。当初の尊名は不詳だが、本稿では現在の尊名に従って、子神、丑神などと呼称する。12躯のうち、申神、酉神、亥神は当初の像ではなく、像背面の陰刻銘より佐田又四郎朝桜が寛永7年(1667)に制作したことが知られる。甲制は次のとおり。兜(子、卯ただし面部は全て後補、辰)もしくは天冠台(丑、寅、巳、午、未、申、酉、戌、亥)をつける。領巾、肩甲、胸甲、表甲(寅、辰、巳、午は甲の文様を浮彫であらわす)、甲締具、鰭袖衣、大袖衣(子、丑、寅、卯、巳、午、未、申、酉、戌、亥)、手甲、天衣、前盾、裙、袴、獣皮、脛当、沓。剣や斧などの武器(いずれも大正期の新補)を持ち岩座上に立つ。構造は薬師如来同様にうかがいがたいが、頭体通して一材から彫出し背面を割り放して内刳、頭部も割首して内刳を施し、肩先などに別材を寄せているようである。眉根を寄せ、開口または口を固く結び怒りをみせるものの、その表情は全体に抑制的である。腕を振り上げたり武器を持つ姿勢をとるが、袖先や裙の翻りなども含めて前後方向の動きはほとんどない。こうした表情や姿勢は平安後期の神将形像に通有のものでその制作は12世紀とみられる。造像当時の史料に恵まれないため、薬師如来立像と十二神将像が元々一具として制作されたかは確かめられない。ただし、辰神には大永8年(1528)に記された像内墨書銘があるらしく、それによると同像は眼病平癒のために修理がされたという。薬師如来立像が堅粕薬師として眼病平癒の利益を期待されていたことは既述のとおりであり、このころには東光院において、薬師如来立像と十二神将が一具として祀られていたことは確かだろう。制作時期も近接しており、両者が東光院に安置されるため当初より一具として制作されたと考えることに大きな矛盾はなく、本稿でもその前提で考察を進める。先行研究による諸像の位置づけ薬師如来立像については、天台系薬師像の一例とみなす見解が先学により示されている(注3)。京都・大蓮寺に伝わる薬師如来立像を考察した伊東史朗氏は、様式的特徴から定朝次世代の仏師である覚助周辺の制作である可能性を指摘した上で、着衣を朱、肉身を漆箔とする仕上げに注目する。このような仕上げの色は延暦寺根本中堂の本尊である薬師如来像とも共通することから、大蓮寺像が根本中堂像を粉本として制作されたと推定する。そして、東光院像をはじめ、大蓮寺像と像容を同じくする薬師像が平安後期の作例に多く見出されることから、根本中堂像模刻の特殊な流行が―376――376―

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