鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
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あった可能性を指摘している。伊東氏が述べるとおり、東光院薬師像と大蓮寺像を比較すると像高や、穏やかさを基調とした基本的な作風が通じるのはもちろん、衣紋の構成や着衣の折り畳みといった細部に至るまで一致しており、両像が共通の粉本に基づく造像であることは疑いない。東光院薬師像は最澄自刻像という伝承を伴っており天台系の造像と推定されることも考え合わせると、本像が大蓮寺像と同じく根本中堂像の姿に基づく可能性は高いだろう。続いて、十二神将像についても先学の見解を振り返っておく。同像がこれまで注目されてきたのは、金鎖甲と呼ばれる甲の小札の文様(毘沙門亀甲)を彩色ではなく、浮彫によってあらわすためである〔図14〕。同様の特徴を持った神将形像は、平安後期の九州において集中的に制作されていることが度々指摘されており、特にこれらの作例を総合的に分析した末吉武史氏の見解が注目される(注4)。末吉氏の議論は多岐にわたるが、本稿と関わる論点を列記すると次のとおりである。・平安後期に制作された神将形像で金鎖甲を彫出する作例はその8割が九州所在もしくは九州所縁であり、分布範囲が九州に偏っている。・九州に残る一連の神将形像の制作時期は概ね11世紀中ころから12世紀末ころであり、八幡信仰との関わりが想定できる作例もいくつか存在する。・寧波に残る南宋時代の石造武人像にも金鎖甲を彫出する作例がある。博多と寧波は11世紀半ば以降入宋交易の拠点として密接なつながりを持っており、九州に残る一連の神将形像が中国に淵源する可能性がある。・一連の神将形像のうち、鹿児島県霧島市の隼人塚に安置される石造四天王像は図像の一部に鑑真請来図像のような奈良時代以来の伝統的な造形を参照している可能性がある。以上、東光院諸像に関する先学の指摘をみてきた。主要な論点としては、天台や八幡といった信仰に関する問題、宋風や古典といった造形の淵源に関する問題、博多と寧波を拠点に展開した入宋交易に関する問題の3つに集約することができるだろう。以下、それぞれの視点より東光院諸像についてみていくことにする。平安後期における天台と八幡九州における八幡信仰の中心的な役割を担った宇佐八幡宮をめぐっては、平安中期に活躍した元命の存在が注目されている(注5)。長保元年(999)に宇佐八幡宮の神宮寺である弥勒寺の講師に就任した元命は、これまで6年の年限があった同職を終身―377――377―

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