鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
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とした(注6)。その後、元命は道長をはじめとする藤原摂関家とのつながりを背景に石清水八幡宮にも影響力を持つようになり、治安3年(1023)に同宮の別当に就任する(注7)。これにより、宇佐八幡宮と石清水八幡宮が統合し宗教権門としての八幡宮寺が成立したとされる。元命の事績をめぐっては、摂関家や石清水八幡宮との結びつきを強めたことに加えて、九州全域に点在する八幡信仰にまつわる神社を支配下に置いたことも注目される。その端緒となったのが、治安4年(1024)に元命の門徒に筥崎塔院三昧を勤仕させることが大宰府(注8)により認められたことである(注9)。その際の大宰府符によると、筥崎塔院は、最澄が構想した六基の多宝塔のひとつで、元は宇佐八幡宮に建立するはずだった分を筥崎宮に建立したものであった。承平7年(937)に建てられ法華三昧が修されていたが、年を経て仏事が廃れてしまったため、元命が元のとおり復興したという。最澄が構想した塔院における仏事を元命の門徒が担うようになったことは、八幡信仰と天台思想の結びつきをさらに強めることになった。こうした動きは元命の子孫によってさらなる展開をみせたことは先学が指摘するとおりであるが、本稿において注目されるのは九州の仏教文化の中心であった観世音寺の別当に元命の子孫である、頼清、光清が就任していることである(注10)。頼清は元命の孫にあたる人物で、天台僧である横川頼源大僧都を師主としており、寛治元年(1087)に石清水別当に就任した(注11)。観世音寺関係の史料に「前々別当」(注12)として名前がみえており、ある時期に観世音寺の別当を務めていたことは疑いない。就任時期は不明ながら、永保3年(1083)ころに大山寺の別当となっていることが注目される(注13)。大山寺は大宰府政庁の北東に聳える竈門山(宝満山)にある竈門神社の神宮寺で、かつて最澄が入唐に先だって薬師を造像し経典の講説を行った場としても知られる(注14)。頼清が観世音寺の別当に就任したのも、大山寺別当となった永保3年(1083)からほど遠くない時期であったと考えられる(注15)。頼清の子息、光清も父と同じく天台系列で、天台座主仁覚僧正を師主とする(注16)。康和2、3年(1100、1101)ころ、石清水修理別当であった時に院宣により観世音寺長吏に任命された(注17)。頼清、光清の時代に八幡信仰を中核としつつ、九州の主要な寺社や天台との結合が果たされたといえよう(注18)。本稿で注目したいのは、この頼清、光清が観世音寺の別当を務めていた時期に、太宰府において金鎖甲を彫出する神将形像が制作されていることである。すなわち、兵庫・東山寺十二神将像は元は石清水八幡宮護国寺に安置されたもので、承徳2年(1098)、大宰権帥であった大江匡房が太宰府で仏師真快に制作させ、―378――378―

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