同寺へ奉納したことが先学により明らかにされている(注19)。本像が制作、奉納された背景としては先学が述べるとおり、大江匡房が八幡神を篤く信仰していたことがあげられるのは言うまでもないが(注20)、上述のような元命、頼清、光清らにより九州において八幡信仰が隆盛を迎えていたことが、その前提となったことが了解されよう。また、東山寺十二神将が金鎖甲を彫出していることから、一連の神将形像の流行に上述の八幡信仰の隆盛が関係していると推定できるだろう。東光院諸像に関しては、同寺が所在する堅粕が筥崎宮領であったことが注目される。すなわち正応2年(1289)の「筥崎宮造営材木目録」(注21)によると、筥崎宮大神殿の玉垣は堅粕西崎の所役で維持されていた。また、同史料で注目されるのが、博多に在住する中国商人の張興と張英(日本名、鳥飼二郎船頭)がこの堅粕の領主であったことである。このことは、金鎖甲を彫出する一連の神将形像が中国に淵源する可能性を説く先学の指摘(注22)とも符合するものといえよう。東光院諸像にみる復古的要素既に述べたとおり、九州に残る一連の神将形像のうち、隼人塚の石造四天王像については南宋の彫刻だけでなく、奈良時代の作例が参照された可能性が指摘されているが(注23)、東光院十二神将像も奈良時代の作例との類似が認められる。午神の胸甲の縁を宝相華で飾るのは〔図15〕大安寺の多聞天像に通じ、巳神の沓の甲に宝相華をあしらう〔図16〕のも同じく大安寺に伝来する広目天像によく似ている。また午神の特徴的な額の表現にも注目したい〔図17〕。神将形像は天冠台の上部は地髪をあらわすのが通例であるが、本像の場合は地髪を剃り上げて天冠台の上部に額をのぞかせる珍しい表現を見せる。同様の表現は畿内における金鎖甲彫出の神将形像でもある京都・清水寺慈心院の毘沙門天立像(注24)をはじめ、平安後期以降の神将形像にいくつか類例を見出すことができるが、特に注目されるのが、興福寺中金堂に安置される旧南円堂所在の四天王像のうち、増長天像(伝持国天)である。この四天王像が奈良時代の作例から多くの要素を取り入れていることは既に先学が述べるとおりで、増長天像の髪型についても戒壇院厨子扉絵の四天王像に先例があることが指摘されている(注25)。東光院十二神将像にみられる復古的要素は図様面だけでなく、表現面についても指摘が可能である。例えば、午神の裙には塑土を箆で削ったような柔らかな衣紋の彫りがみられるが〔図18〕、こうした彫り口は奈良時代末から平安時代初期にかけての木彫像に類例を求めることができよう。また、一連の神将形像を概観すると、大分・真―379――379―
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