注⑴安松みゆき「ヒトラーへの贈り物・ヒトラーからの贈り物─いびつな美術交流の様相」『もところで、ケルンの展覧会記事には作品を鑑賞する大島の写真〔図3〕がある。記事によると、このとき大島は「戦争のあとに藤原は日本式に特製した緞子を用いて作品を表装することを約束している」と発表した。また「作品は着色された紙に丁寧に貼られていて、上下には木の棒が備わる」との描写がある(注27)。つまり日本画作品は本表装がされておらず、紙による裏打ちだけが施された仮表装の状態であった。表装について、1939年7月27日に贈呈作品の決定を報じた記事で藤原は「自分は経済問題と同じぐらい絵のことは明るい自信があるから一切自分で宰領してゆく。ドイツの風地に適合するよう向うで本表装させるつもりで全部仮表装のまま持って行きます」(注28)と発言した。要するに藤原はベルリンで本表装を予定していたが実現せず、作品は仮表装のまま贈呈式を迎えベルリンとケルンで展示された。このことを心残りに思っていた藤原が、大島に本表装の約束伝達を託したと考えられる。おわりに本論文では、ナチ党大会への参加に際し、別の用途で関係者の手元にあった日本画作品および綴織がドイツへの贈呈品に転用されたことや、ベルリンでの贈呈式のあと日本画作品がケルンへ移されたことを明らかにした。成功を収めた伯林日本古美術展覧会につづく日独美術交流事業として、日本画贈呈には文化的および政治的インパクトが期待された。しかし独ソ不可侵条約の締結によって日独関係が不安定となり、贈呈の政治的意義は急減した。贈呈作品展の各地への巡回も計画倒れとなったが、かろうじてケルンでの展覧会は実現した。ただし、いくら同盟国の巨匠による作品とはいえ、爆撃への不安を抱えた市民が落ち着いて作品と向き合ったり、日本との連帯意識を強めたりすることは極めて困難であっただろう。やもや日本近代美術─境界を揺るがす視覚イメージ』勉誠出版、2022年、119~145頁。⑵「寺内大将一行渡独の件」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01004594800(第12画像目)、密大日記第4冊昭和14年(防衛省防衛研究所)。⑶在独日本大使館付武官より次官宛電報、1939年7月27日付、同上(第42画像目)。⑷「盟邦ドイツへ豪華なお土産!ヒトラー総統へ綴れ錦大壁掛」『読売新聞』1939年7月27日、夕刊2面。⑸なお、同文によれば贈呈後の状況は龍子にも不明であった。「さて一行は渡欧して、親しく贈呈されたことは聴いているが、その後のことは……恐らくヒットラーと共に、戦火に焼燼されてしまったことであろう。」髙島屋美術部五十年史編纂委員会編『髙島屋美術部五十年史』髙―29――29―
元のページ ../index.html#39