鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
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木大堂四天王像のように腰高で四肢が良く伸びた、平安後期の神将形像に通有の形姿を示す一群がある一方で、東光院像のように短躯でずんぐりとした体型の作例もいくつか見受けられる。東光院像とよく似た体型を示す作例として注目したいのが、かつて内山永久寺に伝来し現在東大寺に伝わる持国天・多聞天像および、法隆寺三経院の多聞天像である。これらの像は奈良時代末から平安時代初期の造像である興福寺講堂四天王像の模像であることが明らかにされており(注26)、短躯でずんぐりとした体型は原像に由来する可能性もある。だとすれば、東光院十二神将像が同様の形姿を示すのも復古的要素のあらわれと解釈することができるだろう。九州においてこうした復古的造形が実現した要因としては、当地に存在した古像を参照したのかもしれないが、興福寺をはじめとする南都の大寺院において、平安後期以降、火災による焼亡と大規模な再興造営が繰り返されていたことが関係している可能性も考慮すべきかと思われる。こうした大規模造営においては、諸堂の造営が国々や寺家などに割り当てられ、臨時に組織された造営官司が事業全体を統括・調整する体制がしばしばとられた。平安後期の大規模造営を考察した上島亨氏は、興福寺の永承元年(1046)の火災後の再興造営において、自国担当分の工事を早期に終えた筑前国の受領が、事業の責任者であった藤原頼道から賞賛された例をひきつつ、国々の割り当ては単なる経費負担ではなく実質的な造営分担であったと指摘する(注27)。その上で実際の現場では中央の工人が在地の工人を指揮して作業にあたったと想定している。上島氏の推定は大規模造営の中でも建造物を対象としたものであり、これを仏像制作の現場にも敷衍しうるかは分からない。ただ、九州の工人が中央の寺院における復興造像に従事していたとすれば、当地で復古的な造像が行われた理由が説明しやすいことは確かである。資料の捜索に努めるとともにさらに検討を進めていきたい。一方で、上記の仮説が正しかったとして、九州における一連の神将形像の流行を、畿内における復古意識の高まりが地方へ波及した結果とみるのは適切ではない。というのも、現存作例に照らせば一連の神将形像は九州では11世紀後半ころから流行し始めるのに対し、畿内における復古造像の流行は12世紀半ばころを待つ必要があるからである。また、一連の神将形像の分布が九州に偏っていることも、中央からの影響というだけでは説明がつかない。造形の淵源が畿内に存在した可能性を認めたうえで、九州特有の事情、すなわち、当時の対外交流のありように改めて目を向ける必要があるだろう。―380――380―

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