鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
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博多における日宋貿易と権門大宰府の出先機関として設置された鴻臚館は、古来、国家による外交や貿易の窓口として機能してきたが、11世紀半ばころにはその役割を終える。それと入れ替わるように歴史の表舞台に登場するのが博多である。中世博多における対外交流をめぐっては文献史学、考古学による膨大な研究の蓄積があり(注28)、それによると11世紀末から12世紀初めには、博多には宋人が多数存在し(注29)、「博多津唐房」(注30)と呼ばれる宋人居留地が形成されていたことが史料上確認できる。また、11世紀後半になると博多における遺構の例が爆発的に増加し、多くの中国陶磁が出土するようになっており、宋商人の博多居住がうかがわれるという。博多に居住した宋人の中でも船団を率いて貿易に携わった海商の頭は博多綱首と呼ばれ、彼らこそが入宋交易の主たる担い手であった。北西九州には、宋風獅子や薩摩塔など中国系石造物が多く残されており、これらが宋商人の信仰に関わる可能性も指摘されている(注31)。既に述べたとおり、東光院は「博多津唐房」が所在した博多遺跡から至近の吉塚にあるほか、周辺からは中国陶磁の出土例も報告されている(注32)。また、東光院の周辺には薩摩塔や石塔など中国系石造物が複数存在することも、近年、井形進氏によって報告されている(注33)。東光院が所在する堅粕が、中世には筥崎宮領となっており、その領主が博多綱首の張興と張英であったことも考え合わせるならば、東光院諸像の制作およびその造形に中国風の意匠が採用された背景に、筥崎宮と関係を結んだ博多綱首の存在を想定できるだろう。ただ、東光院十二神将像に中国彫刻のみならず、南都の古代彫刻の影響も認めようとする本稿の立場からすれば、当該期の貿易体制が「博多における権門貿易」(注34)とも呼ばれている点に注目したい。すなわち、博多綱首は筥崎宮、大山寺、宗像大社、大宰府官人といった、現地の有力寺社や官人との関係を形成することでそれに連なる権門─石清水八幡宮や延暦寺、院や公家など─と結びつき、円滑な貿易活動を展開したという。こうした体制が一連の神将形像の成立に具体的にどのように作用したのか、現時点では明らかにすることができない。ただ、日本列島の西南に位置しアジア諸国と近接するという九州の地勢的条件が、多数の中国文物がもたらされる要因として機能したことはもちろん、畿内の有力寺社や貴族といった権門勢力と関係を結ぶ上でも重要な意味を持ちえたであろうことは、強調してもし過ぎることはないだろう。その結果、畿内で高まりつつあった古典重視の考えをいち早く摂取するとともに、中国彫像との―381――381―

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