メトロポリタン美術館、そして足利義政寄進銘を持つ個人蔵の高麗仏画「水月観音図」に近似する構図を見出すことができる。白隠画における草双紙や古画の影響については、今後のさらに検討したい。4 白隠慧鶴筆「蛤蜊観音図」の制作背景─『蛤の草子』との関わり先述の通り、白隠以外にこれほど多くの「蛤蜊観音図」を描いた絵師や禅僧は、管見の限り見出すことができない。なぜ白隠は積極的に蛤蜊観音を描くに至ったのだろうか。望月仏教大辞典「蛤蜊観音」の項には「主として漁夫の間に崇信せらる」と記されている。白隠が生涯を過ごした東海道沿いの原宿(現静岡県沼津市)は、その周辺一体が駿河湾に面しており、江戸時代から漁業を生業とする人々が住む漁師町が多くあった。例えば、葛飾北斎画「東海道五十三次」の沼津宿には、大きな富士山を背に魚を干す女性達の姿が主題となっており、歌川広重の「行書版 沼津・名物鰹節を製す」でも、沼津の名物として鰹節作りの様子が描かれている。このような地域は、海の恩恵のみならず水害や水難も多く、漁夫に信仰された蛤蜊観音を好んで描いたのはごく自然なことだったかもしれない。しかし三十三観音には、他にも漁と関わりのある観音として魚籃観音がある。にもかかわらず、白隠が魚籃観音図を描いた現存作例は現在のところ確認できていない。三十三観音の中でも絵画化されることが稀だった蛤蜊観音をあえて選択した背景には、他の要因を考える必要があろう。白隠の「蛤蜊観音図」において、蛤が吐き出す「気」から観音が出現する図様や礼拝人物群を観音と共に描く点に白隠の独自性がみられることは先述の通りであるが、もう一点、特異な表現が確認できる。それは、會津本、佐野美術館本(注6)、永青文庫本に見られる「壽いのちながし」の文字である〔図12、13〕。この表現には、文字通り、観音の利益としての「長寿」の意味が込められていたのだろう。このような白隠筆「蛤蜊観音図」における、蛤、観音、長寿という3つの要素は、御伽草子の一つ『蛤の草子』を想起させる。本著は室町時代には成立していたとされているが、江戸時代の享保期(1716-36)に出版された渋川版によって、僧侶のみならず広い階層にまで流布した。諸本あるため主人公の名前や内容の細部は異なる点も出てくるが、大まかなストーリーは共通する。親孝行者の主人公が老母を養うために漁に出たところ3度同じ蛤を釣り上げ、不思議に思って貝を船に上げると蛤が容顔美麗な女性(その正体は観音)へと変化し、主人公の妻となる。やがて女は美しい布を織り、それを市に持っていくと、ある老翁に立派な屋敷に招かれ「観音の浄土にある―392――392―
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