鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
403/604

酒」でもてなされる。その後女は、自身が観音の化身であり男の孝行を称えるためにやってきたこと、そして老翁の館は観音の浄土であることを明かし、主人公に富貴と長寿をもたらす、というものである。『蛤の草子』の特徴は二つある。一つ目は観音信仰に基づく説話ということである。先行研究では、『蛤の草子』世界の基底にある仏教思想について考察した廣田哲通氏(注7)や、「『蛤の草子』は観音信仰の強い影響の下に成った」として蛤と観音との関わりを探った中野真麻理氏によって、仏教や「観音経」との結び付きや観音信仰との関わりが指摘されてきた(注8)。加えて岡見正雄氏は「従来、斯かる小さな説話は屢々見受けられるにもかかわらず、小冊子である為、看過される傾向があつた。寓目した範囲には猶幾つかあり、例えば御伽草子の蛤草紙がこんな形であるのが間々存するのは、やはり一度は寺庵の手控へを経過してきたことを示してゐよう」とし、『蛤の草子』をはじめとする仏教と結びつきの深い説話は唱導の場において利用されたことを指摘している(注9)。特に江戸時代に普及した渋川版においては、女の正体が観音三十三身の一つである「童男童女身」であることや、「声聞身得度者、毘沙門身得度、婆羅門身得度」など「観音経」に依拠した語が散見されるのである。二つ目の特徴としては、随所で親孝行の徳を説くことである。例えば「これもひとへに親孝行の徳により、かくの如くあはれみ給ふ事紛れなし」(渋川版)や「ただ孝養報恩し、親に孝行の心ざし深きゆえ、観音は種々の方便をもつて、汝を助けんがそのために、自ら織り給ひし布なり」(高安六郎旧蔵本)と、主人公が観音の功徳を得た理由は、孝行者であったからとする。つまり本書は、孝行が富貴や長寿に繋がることを強調した、親孝行を推奨する仏教説話の構造を成しているのである。このように、広く庶民にも普及した『蛤の草子』の存在があったために、白隠はより親しみやすい蛤蜊観音を画題として選択したのではないだろうか。白隠の書画の中には、孝行の徳を説いた「孝」や「親」といった一字書を多く揮毫しており、その賛文に「孝行するほど子孫も繁盛 親は浮き世の福田じゃ」と書いている。封建倫理の枠内において庶民の理想像として挙げられていた「忠孝」を実践することが神仏の福徳につながることを白隠は書画を通じて人々に説いていたのである。したがって、庶民にも広く普及した物語『蛤の草子』は、白隠自身が人々に説かんとした教えと趣向を同じくするものとして、庶民教化に有効な題材であったのだろう。画題として稀であった蛤蜊観音を主題とし、かつ従来の図像をそのまま踏襲しなかったのは、庶民にも親しみのある身近な仏教説話を想起させる目的があったからではないだろうか。―393――393―

元のページ  ../index.html#403

このブックを見る