鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
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精神的なものとしての教会共同体を成立させる愛や聖霊の働きに重ねている。そして教会建築を構成する様々な大きさや形の石やその配置を、様々な役割や生き方をする教会共同体の構成員になぞらえているのである。このようにすることで、教会建築は典礼遂行のためのスタティックな舞台としてだけでなく、それ自体があるべき教会共同体の精神的なあり方について教育するための空間となっているのである。このように教会建築解釈は、特定の個別の建物を想定しているというよりも、建材や外壁の存在のような、おおむね当時の一般的な教会建築に共通するような要素に対して行われている。こうした点は意図的に配慮されたものである。彼は序文にて、典礼やそれにまつわるものには様々な地域的特殊例があるということを挙げ、それを認めつつも、同時に共通に行われていることについて教えることを目指すと説明している(注8)。ただ地域的特殊例についての個別に説明することも彼はしばしば行う。例えば以下の通りである。教会の中のあるものは十字の型に造られており、それは私達に、この世を十字架につけて、かの十字架をたどるべきであると示すためなのだ。「私の後に来ることを望む者は、自分自身を否定し自らの十字架をとり、私に従うのだ」(マタ16:24)。そして少なからぬ教会は、丸く円形に造られている。これは、全地に教会が広がっていることを示す。つまり「地の果てまでかの御言葉が」(詩18:5)ということである。あるいは、私達が全地から永遠の冠の輪へと至ることを[示す]。(注9)ここで彼は十字型の教会と、集中式の円形の教会について、それぞれの象徴的意味を説明している。とはいえ、これも彼の観測や経験に基づくものではなく、ホノリウス・アウグストドゥネンシス(Honorius Augustodunensis, 1080頃-1157頃)の『霊魂の宝玉』などから継承した解釈である。しかし彼自身の経験に依っていると考えられる特殊例の解釈も多々存在する。例えば、三章43節には聖堂内に吊るされたダチョウの卵についての解釈が登場する。これについてドゥランドゥスはまれにしか見られないものであり、当時衆目を集めていたと語る。彼はこれを、ダチョウの生態になぞらえる形で、人間に対する最終的な神の救済に結びつけている。『聖務の理論』の建築解釈は非常に多彩で、全てを紹介するには紙幅は足りないが、まとめとして三点、特徴を指摘したい。第一に、先行する典礼注解書からの引用が非常に多いこと、第二に、普遍性を志向し様々な教会に共通となりうる象徴的解釈の提―402――402―

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