供を目指していること、第三に、典礼での役割に応じた差異はあるものの、細かい様々な設備にまで、象徴的解説を加えているという点である。③ 『聖務の理論』の「シンボル」理解の基本姿勢『聖務の理論』では、特に第一巻に先立つ序章の部分と四巻で、典礼における象徴の役割や象徴的解釈の基本的な理論についての説明がなされている。そこで序章から、象徴に対する基礎的なドゥランドゥスの姿勢を観ていきたい。あたかも書かれたものを通して教えられる者のように、私達は秘跡を、しるしや形象を通して受け取る。ここでは形象は[神の]力ではなく、力のしるしなのである。そしてあるしるしは自然的なもの(naturalia)であり、あるものは人為的なもの(positiua)である。(注10)ここで彼は典礼がもたらす賜物は「しるし」や「形象」を通して受けとる事ができると語る。このしるしについての説明には、古代末期のキリスト教思想家であるアウグスティヌス(Augustinus, 354-430)が『キリスト教のおしえ』にて、聖書解釈について説明する際に挙げた無意志的しるし(Signa naturalia)と意志的しるし(Signa data)の区別が反映されている(注11)。意志的しるしとは、なんらか意図的に象徴として働くように人為的に設定されたしるしであり、無意志的しるしとは、煙が炎を示したり、あるいは夕焼けが天気を示すような、それ自体は意図的でない、自然なしるしを意味している。ドゥランドゥスはこの聖書解釈に関する理論を踏襲しつつ、特に意志的しるしの考え方を典礼で用いられるしぐさや言葉、そして道具などの形象の問題に転用した。これをもって、彼は典礼を「聖なるもののしるし、あるいは隠されたもののしるし」(注12)と称するのである。そして「しるし」が用いられる意義について、キリスト教的歴史観を踏まえつつ、以下のように続けている。ところで、教会の事物や務めにおいて行われることが、予型的に(figuraliter)なされているようには見えない。なぜなら予型は過ぎ去り、いまや真理の時であるが故に、ユダヤ的に行うべきではないからだ。しかし今日、真理が現れて予型が過ぎ去ったとしても、私達には見えない一層多くの真理が実に隠れているのだ。それゆえに、教会は予型(形象)を用いているのだ。例えば純白の衣は我ら―403――403―
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