鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
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ナゴーゲー的解釈も含まれていると見なされてきたことを踏まえていると言っても良いだろう。このようにドゥランドゥスは、先行する典礼注解書を踏まえ、聖書解釈の歴史を典礼の様々な形象解釈に転用した。その上で、人間が感覚を持って受けとる様々な典礼の諸要素を、超感覚的な教えを受け止め、理解するためのものとして提示しようとしたのだ。④ 教会の象徴的解釈の系譜から見た『聖務の理論』それではこうしたドゥランドゥスの教会建築解釈について、キリスト教における教会の象徴的解釈史という大きな文脈の中に、どのように位置づけられるかについて考察したい。そもそも、建築の象徴的解釈は新約聖書にも見出すことができる。エフェソの信徒への手紙二章19-21節では、信者たちの共同体はキリストを要石とし、「使徒や預言者という土台の上に建てられ」たとされる。しかしこうした比喩は建築に対する解釈ではなく、信徒の共同体がどうあるべきかを、建築のメタファーによって語るものである。そこには建築的モティーフを用いつつも、建築そのものを乗り越え、見えない共同体こそが重要であるとする、一種の緊張関係が存在する。特に新約聖書には、エルサレムの神殿などを念頭に置き、宗教建築そのものに対して特別な意味を見出すことを忌避する傾向も多々見られる(使7:48)。しかしキリスト教が公認された四世紀を境に(注16)、壮麗な教会建築が様々に造りだされてゆくこととなる。こうした中で、次第に建造事業や建築そのものに対して、象徴的解釈が結びつけられるようになった。最古の例としては、例えばエウセビオス(Eusebios, 263/65-339)の『教会史』における、ティルス大聖堂竣工の際の非常に宗教的色彩の強い賛辞に見出すことができる。また教会建築の象徴性の問題は、単に物質的教会を肯定的に捉えようとする文脈だけでなく、典礼との強い結びつきがある点も重要である。特にキリスト教世界では典礼に対して様々な解釈が、今回扱った典礼注解書群に先立つ形で書き残されてきた。4世紀ごろには、洗礼志願者などにたいして、洗礼の水やミサの中でのパンとワインの意味などについて説く、いわゆる秘儀講話と呼ばれるものが様々な著者によって書かれた。こうした解釈は次第に様々な典礼の要素に対して象徴性を付与するようになり、そこでは儀式の部分だけでなく、空間に対する言及も行われるようになる。証聖者マクシモス(Maximos Homologētēs, 580頃-662)は、教会建築そのものを、神や宇―405――405―

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