鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
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1年目に図案が課せられており、これは全教科のなかでもっとも時間が割かれている〔表1〕。2年目以降は特殊工芸図案という科目がみられ、開校初年時の図案科は工芸を図案の中心に捉えていたことがわかる。明治26年(1893)から修業年限が4年となり、入学初年に予備課程が置かれた。また、同年から絵画科にも「図按法」が課せられるようになり、「各代装飾ノ様式ニ基キ美術工芸図按ヲ作ルノ要法ヲ講授ス」という内容から、実習ではなく講義であったことがうかがわれる。そして、明治29年(1896)に再度「図按科」が設置される。この時点の課程をみると、実習にもっとも時間を割いており、また学科独自の科目として、「図按法」「建築装飾史」「建築装飾術」「物品製作大意」「用器画法」がある〔表2〕。「図按法」はこの前年まで絵画科の科目として置かれていたが、図按科の再設置とともに絵画科の科目から削除されている。図按科は、教授として福地復一(1862-1909)、助教授に横山秀麿(1868-1958)、本多佑輔(1867-1946)、嘱託教員の前田健次郎(1841-1916)が担当していた。また、嘱託教員として塚本靖(1869-1937)が用器画法、建築装飾史および建築装飾術を担当していた(注5)。しかし、福地が翌年には美校を退職したため、一時的に川崎千虎(1837-1902)が後任をつとめたが、翌年には学校長の久保田鼎(1855-1940)が教授として「図按」を兼任するなど、不安定な状況が続く。その後、明治35年(1902)に美校1期生の島田佳矣(1868-1962)が東京高等工業学校を経て教授に就き、以後30年にわたって教育にあたった。図按科の教育課程を見ると、明治29年(1896)の学科設置時から明治38年(1905)に学科編成が変わるまで変更されていない。同年の変更は、「建築装飾史」と「建築装飾術」が「建築学」として統合され、「物品製作大意」が削除された代わりに「工芸製作法」が加えられて時間数も増加しているほかに、「絵画」と「実習」の時間数が調整された程度で、大きく変わっていないことがみてとれる。よって、明治期の美校図按科の課程は、再設置された明治29年(1896)時点のものでおおよそ固まっていたものと考えることができる。1-2.東京高等工業学校工業図案科次に、東京のもう一方の図案教育機関である東京高等工業学校(以下、東高工)工業図案科をみる。同校の設立は前身となる東京職工学校(明治14年(1881)設立)までさかのぼる。職工学校はその後、明治23年(1890)に東京工業学校に改称され、同27年(1894)には工業教員養成所が付設される。そして、明治30年(1897)に同所に設置されたのが、工業図案科である。同科があらたに設置された要因は明らかではな―422――422―

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