いが、学科の教育目的を「科学知識ヲ有シ併セテ技術練習ノ素地ヲ具へ普通工業品ノ図案ヲ為シ得ルモノヲ養成シ以テ各種低度工業学校ニ於ケル図案教員タラシメントスルニ在リ」としている(注6)。明治30年(1897)時点の教育課程をみると、「図案」は実習科目内に含まれ、同時に金工、木工、漆工、陶磁器、染織を2年間でこなすようになっていたことがわかる〔表3〕。これは、課程の概要にも「理化学数学其他ノ科学ヲ授クルト同時ニ始メ二学年間ニ於テ図案ノ外金工、木工、染織工、窯業、漆工ノ実習ヲ為サシメ最後ノ一年ニ於テハ以上各業ノ一ヲ撰ヒ専修セシムルコトトセルハ生徒各自ニ専修セシムヘキ工業ノ種類ニ精通センコトヲ欲スト雖一業ニ偏セス他ノ図案ヲモ為シ得ヘキモノヲ養成センコトヲ期スル」(注7)と記され、図案制作と実物制作の両方を習得することを意図していたことがわかる。この時点で、工業図案科の講師として、農商務省特許局審査官もつとめていた平山英三(1855-1914)と前年まで美校の嘱託教員として「図按」と「考古学」を担当していた前田健次郎の2名が「図案材料」、「工業図案実習」の担当として島田佳矣がそれぞれ記載されている(注8)。その後、明治32年(1899)には、工業図案科が東京工業学校にも設置される。同科は「科学知識ヲ有シ併セテ技術練習ノ素地ヲ具へ普通工業品ノ図案ヲ為シ得ルモノヲ養成セントスルニ在リ」(注9)を目的としており、教育課程は工業教員養成所のときのものを概ね引き継いだが、あらたに副科長として井出馬太郎(1869-1910)、「図画」、「図案法」、「図案実習」の担当に河邊正夫(1874-1918)が就いた。さらに、翌年の明治33年(1900)には工業図案科を卒業した小室信蔵(1870-1922)が「図画」と「絵画」の担当として着任している。しかし、その翌年の明治34年(1901)には、課程が大きく変更される。同年、東京工業学校は東京高等工業学校に改称され、数学、物理などが「本科共通学科課程」として他の学科と同じ内容となる。それ以外の専門科目は学科ごととなり、工業図案科も課程が再編される。このときの変更では、これまで図案法の内容であった有職故実、建築装飾が「工芸史」とともに新設の「図案材料」に統合され、また「絵画」と「用器画法」も同じく「図画」としてまとめられ、さらに「工場実習」と「図案実習」があわせて「実習」とされた。授業時間数をみると、共通科目と専門科目をあわせて毎週29時間に減少したことから(注10)、実習系科目の時間数は明治32年(1899)時点の課程からすべて3割程度短縮されている。しかし、明治35年(1902)にはふたたび科目名が「図案法」に戻されるとともに「有職故実」、「建築装飾」、「工芸史」は独立した科目となる。35年(1902)の課程はその後40年(1907)まで続くが、41年(1908)にはまた課程が改正される。このときに本科―423――423―
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