共通科目の記載がなくなり、工業経済、工業衛生などの科目が工業図案科課程に戻された。さらに44年(1911)には41年(1908)の課程に「図案構成法」、「色彩学」が加えられ、「自在画」は「日本画」と「西洋画」に分けられ、「図案実習」と「図案応用」は統合されて「図案」となった〔表4〕。東高工工業図案科の課程は明治32年(1899)の設置以来、3度の大きな改正を経たが、明治44年(1911)の改正でようやく完成をみたといえるだろう。2.京都の図案教育機関2-1.京都市立美術工芸学校官立学校ではないが、京都で明治期に図案教育をおこなっていた教育機関のひとつとして、明治13年(1880)に京都御苑内に創立された京都府画学校を源泉とする京都市立美術工芸学校(以下、美工)がある。画学校は、東京のふたつの図案教育機関が政府直轄の学校であったのに対して、在京の画家たちと産業界からの要望が結実して開校にこぎつけたという背景がある。東京の図案教育機関が政府の方針を直接的に反映しているとすれば、美工はより産業界の意向が影響している学校である。画学校は創立当初、写生画の東宗、洋画の西宗、文人画の南宗、漢画の北宗に分けられ、実際は学校のなかに画塾が集められたような絵画教育がおこなわれていた。しかし、創立以来資金問題を抱えていたことと、産業界からの需要に十分に応えることができていなかったことから、明治22年(1889)に京都市に移管して京都市画学校と改称した。さらにその2年後の同24年(1891)には、京都市美術学校に改称すると同時に絵画科と工芸図案科を設置した。同科は甲部と乙部に分けられそれぞれの修業年限を5年と3年と規定した。この改称は、同年に公布された実業教育費国庫補助法を背景とするものであり、開校以来の要望に応える体制がおおよそ整ったといえる。その後、学校は明治27年(1894)に京都市美術工芸学校、34年(1901)に京都市立美術工芸学校と改称を重ねる(注11)。美工は、前述したように明治24年(1891)に工芸図案科を設置し、図案教育を開始しているが、これは開校時に一時的に図按科が設置されたものの実質としては明治29年(1896)に図按科が設置された東京美術学校よりも早い。明治26年(1893)には日本画家の谷口香嶠(1864-1915)が工芸図案科の教員となり、その後、明治37年(1904)に図案科に改称した翌年の38年(1905)には、神坂雪佳(1866-1942)と古谷紅麟(1875-1910)が美工附属の図案調整所の嘱託技師から教諭となり、図案教育が本格化した。―424――424―
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