鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
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まず、工芸図案科が設置された翌年の明治25年(1892)の教育課程をみる〔表5〕(注12)。甲部工芸図案科の実技科目では、絵画科と共通する「運筆」、「臨摸」、「図案」が中心に据えられていたが、「実業応用」という科目が別におこなわれていた。ただし、絵画科の「臨摸」が「主トシテ古画ヲ臨摸セシメ古人用意ノ存ズル所ヲ咀嚼セシム」とされているのに対して、図案科では「古図画及古模様ヲ臨摸セシム」(注13)とされ、より工芸における装飾を意識したものであることがわかる。絵画科にはない「実業応用」は、3年次から5年次まで実施されていた科目で、「彫刻鋳造漆器陶磁器七宝刺繍友禅織紋ノ各項ニ分チ専ラ其一項ニ就テ図案下絵ノ応用ヲ実習セシム其幾項ヲ兼修スルハ生徒ノ望ニ任ス」(注14)という図案科独自の内容だった。しかし、毎週の時間数からみるともっとも時間を割いていたのは「運筆」であり、「実技応用」の2倍以上、全科目の合計時間の4割以上を占めている。このことからも、美工図案科では絵画科に準ずる描画技術習得を重視していたといえる。明治25年(1892)に設置された工芸図案科の教育課程は、京都市美術工芸学校に改称した明治27年(1894)に改正されている〔表6〕。おもな変更点は、「図案」が「図案法」に、「実業応用」が「工芸図案実習」にそれぞれ名称変更されるとともに、「運筆」の時間数が半減し、代わりに「臨摸」が3倍、「実習」がおよそ1.5倍に増加した点である。さらに、その後の明治45年(1912)時点の課程では、運筆、臨摸、写生などと新案制作が「実習」として統合され、「図案法」は平面および立体図案の制作方法を教授する科目とされる。この時点で図案科では先述したように、雪佳、紅麟が指導にあたっており、教育課程もおおよそ完成していたと考えられる。2-2.京都高等工芸学校京都で図案を教育していたもうひとつの学校が、明治35年(1902)に開校した京都高等工芸学校である(以下、京高工)。同校設立以前にすでに美工があったが、地元の産業界からは、より高度な知識と技術を備えた人材の需要が高まっており、美工に工芸図案科が設置された翌年の明治25年(1892)には、染業者が官立工業学校設置を請願する運動をおこしている(注15)。実際に京都に官立の工業学校が設立されるのには、請願運動からおよそ10年を要したが、「工業学校」として計画されながら、最終的には「工芸学校」という名称に至ったことと、機織科、色染科、図案科という3科で開校したことは、染織業界の意向を踏まえた内容としてみることができ、官立でありながらも美工と同様に地元産業界からの影響がみてとれる。開校当初の図案科は、美校で西洋画の教授もつとめていた浅井忠(1856-1907)と、―425――425―

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