つ、合計36時間「絵画」が課せられている。明治29年(1896)時点の図按科教員の担当科目のなかに「絵画」の記載はないが、福地復一以外の横山秀麿(1868-1958)と本多佑輔(1867-1946)が担当していたと考えられる。東高工は「日本画」を3年間で合計45時間、「西洋画」を1年目と2年目にそれぞれ15時間ずつ課している。担当はそれぞれ廣瀬済(1875-1930)と松岡寿(1862-1944)である。ただし、これらの科目は、後述する「図案」とあわせて「工場実修ト看做ス学科目ヲ示ス」とあり(注17)、課程記載通りの時間を割いていたかは確認できない。一方、京高工は「絵画」に相当する「画学及画学実習」が3年間で55時間、2年目から3年目にかけて6時間ずつ「日本画」を課している。これは、4機関のなかでもっとも多くの時間を割いていることとなる。「画学及画学実習」は浅井忠が担当していた。先に述べたように、最初期の課程は浅井による可能性が高く、画家である浅井が絵画制作技術を重要視していたことがここにあらわれている。内容は、おもに木炭および水彩による摸写、石膏像の写生、器物写生、スケッチなど13課題がある(注18)。「日本画」は後半2年間で受講するように設定されていることから、基礎的な内容というよりも画学実習の追加科目のような位置付けといえる。要項に記載がないため担当教員は確認できないが、内容は「実習ニ由テ授ケ最初ハ草花ノ運筆ヲ練習セシメ漸次古画ノ摸写ヲ行ハシメテ鳥類動物ヲ描カシメ遂ニ写生ヲ基トシテ作画ヲ行フニ至ラシム」(注19)というものであった。美工は科目名称として「絵画」はないが、「実習」のなかに写生、模写、臨摸といった基礎的な内容が含まれている。「実習」における細目内の時間配分は不明であるためこれらの内容にかけていた時間数は明らかではないが、写生、模写、臨摸は4年間通して課せられていたため、相当数の時間を割いていたことがうかがえる。「絵画」に関する科目については、美校は3年目までに終えていたことと、東高工では「西洋画」は2年目までに終え、「日本画」は3年目に時間数を減らしていることから、基礎から図案制作へいたる過程として考えていたことがわかる。一方、京都の2機関は、いずれも卒業までかけて図案制作と並行しておこなっていることから、絵画制作に関する技術を東京の2機関よりも重要視していたことがうかがえる。3-2.用器画(図学)次に「用器画(図学)」についてみる。美校と東高工にある「用器画」は、東高工の要項によると「平面画法及立体ノ正写投象法ノ一班ヲ説明シ問題ヲ興ヘテ製図ノ練習ヲ為サシム」とあり(注20)、美工、京高工にある「図学」にあたる科目であるこ―427――427―
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