とがわかる。美校の「用器画法」は、塚本靖、小島憲之(1857-1918)、のちに京都高等工芸学校図案科の教授となる武田五一が担当していた。美工では細目を幾何画、投影画、透視画としており同様の内容であることがわかるが、3年目から4年目にかけて課せられており、ほかの3機関と比較すると応用的な科目として位置付けられていたことがうかがえる。また、時間数を比較すると、美校、東高工、美工が3年間もしくは4年間で3~6時間であるのに対して、京高工は講義科目の「図学」と実習科目の「図学実習」を含めると3年間で20時間を課しており、ほか3校の3倍ほどの時間をかけていたことがわかる。京高工の図学は「点、線、面等ノ図学的理論」「点、線、面等ノ射影図ニ関スル理論及図法」などの講義からはじめられ、「立体図法」、「透視図法」など19項目の図法に関する講義と、実習では「点及直線ノ射影」「多面体及器具類ノ実測製図」「透視画法及定角投影画法」などの基本的な課題から「郊外建築実測透視図」まで32項目に及ぶ練習課題を課していたようであり(注21)、図面制作技術の習得に重点を置いていたことがわかる。3-3.図案最後に「図案」科目について検討する。美校では明治29年(1896)時点では、福地が担当していた「図按法」が1年目に2時間ある。2年目に3時間あてられていた「建築装飾術」は、「建築装飾史」とともに塚本靖が担当していた。当時の校長であった岡倉天心(1863-1913)は、図按科から建築装飾科を独立させるつもりであった(注22)。明治39年(1906)には図按科を2教室に分け、第一教室では諸器物、平面図案、室内装飾の図案を教え、第二教室では建築装飾と室内装飾を教えていた。建築分野の独立は大正12年(1923)にようやく実現するが、図按科設置当初から「建築装飾術」は時間数以上に重要視されていたことがうかがえる。また、「実習」が図按科における制作科目に相当するが、4年目の「卒業制作」を含めると合計で95時間を割いている。これは、4年間の図案制作に関わる科目の合計時間数の7割を占めており、大部分は「実習」と「卒業制作」に費やしていたことがわかる。内容は、要項によると「内外各時代ノ工芸及装飾図按ノ様式ヲ教ヘ之ニ由リテ新按セシムルモノニシテ平常各時代ノ形式、模様、配色等ヲ知ラシメ或ハ動植物ヲ写生セシメ之ヲ模様化シテ各種ノ図按ヲ新作セシム」というものであった(注23)。東高工の課程には図案に分類できる科目として「図案構成法」がある。3時間ずつ3年間通して課せられていたものであり、課程が改定される前年までは「図案法」がこれに相当する科目であった。「図案法」は要項によると「形状装飾及色彩ノ三部分―428――428―
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