注⑴緒方康二による図案教育に関する一連の論考としては、「明治とデザイン:東京高等工業学校工業図案科を中心に」『夙川学院短期大学研究紀要』第2巻、夙川学院短期大学、1978年、「明て、美校時代の卒業作品は、かつての指導者であった神坂雪佳を意識したような伝統的な様式を踏襲した作品となっている。これらは、いずれも具体的な物品を想定しているもののそれらのための装飾図案という傾向がある。東高工は工業教員養成所工業図案科にはじまり、明治32年(1899)に本科として工業図案科が同校に設置された。さらに、その2年後には工業図案科内の研究機関として「大日本図案協会」が結成される。同会の活動のひとつであった機関誌『図按』における連載を通して、小室信蔵は後に『図案法講義』(明治39年(1906))、『おだまき』(明治40年(1907))、『一般図按法』(明治42年(1909))という図案制作手法の体系化へと展開する。東高工における図案制作の体系化、理論化は特筆すべき点であるが、実習科目である「図案」内に含まれた科目から、図案とその工法の検証がおこなわれていたことは、工業図案科の図案制作が、量産のために高度な技術を要しない日用品を想定した実物制作を視野に入れた図案から製造までの実践であったことを示している。一方、京都では地元産業界の要請から国内でいち早く図案教育が開始されていた。美工はこうした要求に応えるべく、工芸図案科を設置し、現場で図案を「描く」人材を供給する役割を担っていた。染織業界の影響が大きかった当時の京都において、美工がほぼ実習で課程を構成していたのは、こうした地域特有の事情によるものとしてみることができる。また、京高工図案科の図面制作を重視した課程も工業化が進む工芸産業に図面としての図案を「描く」人材を輩出していたことに違いはない。近代日本の図案教育は、東京と京都という新旧の首都で開始され、ふたつの都市の図案教育には地域特有の事情が背景にあるということが、その課程にもあらわれていた。課程を作成した東西の指導者たちは、それぞれの機関に関与していた。美校で「建築装飾」を担当していた武田五一はその後東京から京都へ移り、京高工図案科教授としてながく関西のデザイン界を指導者として牽引した。浅井忠も同じく美校から京都へ移ってきた。また、美校を卒業した島田佳矣は東高工を経て、美校に戻った。さらに、明治32年(1899)から美校で「図按法」を担当していた今泉雄作(1850-1931)はのちに京都市立美術工芸学校校長となる。こうした指導者たちの動向と図案教育への影響は今後の課題としたい。―431――431―
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