両者の交友が始まるのは早くて順治13年(1656)頃と考えられ、そこから惲寿平の没年まで継続的に資料が確認されるが、ひときわ目立つのが康熙9年(1670)からの約3年間である。この期間には両者、あるいは笪重光(1623~92)を交えた三者の互いの作品への題跋が集中的に残っており(注24)、彼らが多くの行動を共にしたことは明らかで、最も交友が深まった時期と考えられる。もう一つ重要なのが、惲寿平の花卉画はこの時期より前に殆ど見られないことである。惲寿平の花卉画家への転向を示す唐炗(1626~90、唐宇昭の子)との合作「紅蓮緑藻図」(北京故宮博物院)〔図17〕は「花隖夕陽図巻」の半年前の作である。王翬に山水を譲り、自らは花卉に専念したという惲寿平の発言は、言葉通りでなく友への尊重や謙遜が込められていたと理解すべきであるが、実際の発言だとすればこの時期になされた可能性が高い。山水から花卉に画業の主軸を移しつつある時期の惲寿平は、没骨淡彩の表現可能性に特に自覚的であったと考えられる。惲寿平の画論には没骨技法を介して山水と花卉を結びつけるものもある(注25)。ちなみに、彼の花卉画は北宋の徐崇嗣の画法を復興したといい、黄筌らに連なる職業的花鳥画との差異を強調するが、これは董其昌が王維や董源を祖に掲げ自らを正当化した南北二宗論と同じ構造をとっている。以上から考えると、「花隖夕陽図巻」の柳や葦の描写はまさに彼の山水画家から花卉画家への過渡期に位置づけられる。これまで本作に花卉画と通じる特質を見出す言及は数多くなされてきたが(注26)、その背景にはこうした画業の展開を想定することができる。そして、同時期に王翬も画風確立期を迎え、南宗画の枠を超えて青緑山水や華北山水など幅広い古典の吸収に努めていた。そこに卓越した画論家でもある惲寿平の題跋が寄せられ、精神や筆墨だけでなく絵としての再現性や色彩を重視する視点から、適切な古典の例を引き合いに出し、王翬の画に正統的な文人画としての説明を与えている(注27)。本論で詳しく扱った柳に関して言えば、本作の翌年に笪重光のために描かれた王翬「水竹幽居図巻」(蘇州博物館)〔図18〕に付属する惲寿平の題が、柳と竹の錯綜する景観を巧みに詠み込んでいる(注28)。こうして惲寿平の絵画思想は王翬と共有され、清朝の画壇全体の趨勢をも左右するものとなった。四王呉惲での惲寿平の役割とは、山水・花卉画家としての目線から宮廷進出以前の王翬を理論的に助けたことにあった。そして、南宗画をより普遍的なものへと拡張するこの動きは、董其昌が若年時に枠組みを提示した「集諸家大成論」を改めて展開したものでもある(注29)。王翬との交友と花卉画への転向という二つの事象が重なる「花隖夕陽図巻」に―441――441―
元のページ ../index.html#451