鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
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㊶ 画僧鑑貞と中世南都の水墨画壇研 究 者:京都国立博物館 研究員  森   道 彦■中世漢画と南都・南山城文明4年(1472)、当代を代表する文化人の一人である一条兼良は、長期逗留先の南都で1幅の山水図に着賛した。彼は応仁2年(1468)頃から戦乱を避けて興福寺大乗院門跡の次男、尋尊を頼って下向しており、作品は「蜀山図」(静嘉堂文庫美術館蔵)〔図1〕として現存する(注1)。絵は30年あまり先立って相国寺の画僧、周文周辺の様式で京都において描かれ、既に建仁寺の詩僧、江西龍派の賛も伴っていた。さらに南都にもたらされ、兼良が賛を追加した経緯は不明だが、家門の関係者や詩文で交流のあった客人が持ち込んだか、あるいは兼良自身の所蔵品だったのだろう。兼良は蔵書家で和漢の詩文や学問に精通し、下向以前にも相国寺の瑞渓周鳳と共に文清「山水図」(正木美術館蔵)に着賛するなど、公家でありながら五山文壇の詩書画に深く関わっていた。同時期の南都には鷹司家(房平・政平)や近衞家(房嗣・政家)、九条政忠といった摂関家の当主たちも下向し、頻繁に連歌等を催して当地の社寺や有力者と交流を深めたことが知られる(注2)。さらに彼らの移動には、その愛顧を受けていた芸能者など多数の職能民も追随しており、漢画の画人たちも例外でなかった。例えば室町幕府同朋衆の能阿弥は最晩年期の文明2年(1470)、歌人の正広らとともに南都に逗留しつつ、伊勢を巡って翌年長谷寺で没しており(注3)、恐らくは周文弟子世代(小栗派など)に学んで後に狩野派の実質的な初代となる狩野正信も一時、南都押上(東大寺西側)に居を移していた(注4)。先の「蜀山図」の存在と併せてこれらの情報は、15世紀後半の南都に都ぶりの良質の漢画が少なからず持ち込まれていた光景を想像させる。後れて16世紀中葉に至っても、狩野派が手がけたと考えられる南都多聞山城(松永久秀の居城)の障壁画記録や、興福寺の公物であった狩野元信「四季花鳥図屏風」や狩野松栄「四季花鳥図屏風」(ともに白鶴美術館蔵)などの伝世品があり、少なからぬ優品が京都から運ばれてきたことは確からしい(注5)。ただしそれらの漢画類が、南都の在地画壇にいかに影響を与えていたかは判然としない。少なからぬ絵の需要が想定され、地理的に近いにも関わらず、京都から一時的に疎開や遊歴を果たした先の能阿弥や正信らを除き、弟子を畿内外で活動させて地方にその様式を普及させた阿弥派や狩野派の正系画人のうち、南都周辺を基盤とした人物は知られない。―447――447―

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