鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
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一方で17世紀後半の『本朝画史』や幕末の『古画備考』といった画史類は、南都やその周辺(大和・南山城)に関わる15~16世紀の画人として楊月、珠光、山田道安、鑑貞らの名を挙げる。またこの数十年来、室町時代最末期の関東・東海地方における特異かつ極めて洗練された地域画人(祥啓派〈阿弥派〉と狩野派などの折衷画風)として評価を高めた式部輝忠も、その出自を南都とする同時代記録があり(注6)、注意を要する。残念ながら現存する彼らの遺作中に南都伝来を実証できるものはないが、確実に在地で受容された水墨画としては目下、春日若宮社近辺の絵屋、櫟屋が手がけた水墨による略筆の「地蔵菩薩像」(春日大社蔵)や(注7)、その関与が指摘される「春日名号曼荼羅図」(奈良国立博物館蔵)などがある(注8)。南都画壇の主流をなす絵仏師やその顧客の間でも、遅くとも16世紀前半には水墨表現を求める趣向が一部にきざしたのであり、画人伝が伝える少なからぬ描き手の輩出もこうした状況を背景とするものだろう。一方で彼ら南都圏ゆかりとされる画人たちに広く言えるのは、周文派など都の有力な画系の用いる構図や技法の摂取が各個で私淑的かつ散発的になされ、画人相互の様式にまとまりが見出しにくいことである。これは転じて、当地の漢画制作における一つの性格とみることが出来るかもしれない。15世紀後半の畿内周辺には、例えば小栗派系の画僧と考えられている一枝希維など大徳寺派や東福寺派(聖一派)の禅院と結びつきのあった堺ゆかりの画人や、同じく大徳寺系で越前朝倉氏と関わった曾我派、狩野派系ともされ大徳寺僧の着賛品などもあったという北近江の元忠(江北元忠)(注9)、恐らく周文の弟子で在京しつつ東福寺を通じて堺や伊勢方面に作例を残した岳翁など、都に大小の足がかりを置きつつ在地でも画業を展開した画人たちがいた。山口や北部九州を基盤とする雪舟流や、関東の画壇をはじめ、戦国期の漢画研究においては書画がつなぐ文化人の都鄙間交流、地域権力と結びつく在地画壇の成立、さらにそれらと連動する沿海部における人と文物の流通や国際通交が在地文化にもたらす影響などが重要なテーマとなってきたが、さほど都の遠隔地ではない畿内でも様相は同じく複雑で、絵画の状況についても地域ごと検討せねばならない。その中で南都圏の画人たちもまた、都の画系と密接に関わりつつもその様式に完全には包摂されず、周縁的な位置で一つの存在感を示して活動した例とみなし得るように思われる。本研究ではそうした南都の画人たちの実情を検証すべく、16世紀前半に活動した画僧鑑貞を中心に、その前後の人物にも目配せしながら南都の漢画壇の特性について考察を試みた。鑑貞は唐招提寺の律僧であったとする近世伝承があり、構図や筆法面で特に山口を中心に発達した雪舟様式との特異な共通項を示す画人としてこの30年あま―448――448―

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