鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
459/604

り、主に雪舟研究上において注目を集めてきた人物である。その研究は画人個人に対するものよりも雪舟理解という点に最も強く引きつけられてきたが、実際に遺作に強く見出せるのは周文派や阿弥派の図様や技法の幅広い摂取で、それに影響されつつ独自の個人様式へと収斂していく点に端的に特徴を求められる。■楊月と珠光先に触れた通り、南山城や南都に縁あると語られる画人たちの間に、顕著な在地様式の共有を見出す事はできない。ただし少なくとも各人で周文派学習などを積極的に行っていたようで、その兆候は15世紀後半から現れる。例えば薩摩出身で南山城の笠置寺(東大寺末)に住んだとされる楊月は、一部に後世の擬古作を含むものの、真筆ないしは中世作で当人の様式の判断材料となりそうなものに絞っても20点を越える作例があり、かつ活動時期の一部が明確に15世紀に遡る。来歴情報は17世紀後半の『本朝画史』を資料の上限とするが、少なくともその時点で「笠置楊月」と通称されるなど、南山城を活動基盤とする画人として認識されていたらしい(注10)。一方で五山の高名な詩文僧、希世霊彦が南禅寺聴松院を創建して退院中の文明17年(1485)に着賛した「山水図」(畠山記念館蔵)は、楊月と五山禅林との接点を明確に物語る。伝承通り笠置寺に属したとすれば彼は恐らく禅僧ではなかったろうが(華厳僧や律僧か)、物外「墨梅図」(正木美術館蔵)といった室町時代前期の墨梅図に影響されたとみられる「墨梅図」(個人蔵)も残しており、京都の禅林社会を活動の場の一つとしていたことは恐らく間違いない。禅僧の着賛品としては妙心寺僧の亀年禅愉賛「渡唐天神図」(退蔵院蔵)、建仁寺僧の古澗慈稽賛「蜆子和尚図」(岡山県立美術館蔵)などがある。亀年や古澗の賛は制作後数十年を経ての後賛で、楊月自身の人脈を明らかにするものではないが、行体画の自画賛「布袋図」(禅居庵蔵)など、今も五山寺院内に伝世品を残している。遺品のうち最も大作と言えるのは「四季山水図屏風」(東京国立博物館蔵)で、これは画面構成と筆法の両方で周文系山水図屏風を強く意識した作風で、やはり京都での画学体験を強く窺わせる。左隻の遠山の形や山肌に部分的に付される淡墨の短皴の塊は、15世紀中葉以降、16世紀初頭にかけての周文派の諸作例に用いられるもの、個別のモチーフは多くが15世紀後半に夏珪様として流通する図像を摂取して連結したものと思しく、それは例えば右隻第1・2扇の瀟湘八景図様(山市晴嵐図)〔図2〕と、関東系の阿弥派である祥啓「山水図」(東京国立博物館蔵)〔図3〕との流派を越えた図様の共有などに顕著にうかがうことが出来る。―449――449―

元のページ  ../index.html#459

このブックを見る