鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
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一方でやや弛緩した線描や、台形状の入母屋屋根など建造物表現にみられる独特の形態感覚、未整理な線でぼんやりと表される一部の岩は、周文派の正系様式の範疇からは逸脱する。楊月の周文派学習が正式なものか、私淑的なものであったかは不明瞭だが、いま図版のみで知られる「山水図」(『美術画報』10編巻2、1901年)〔図4〕は、画面左手の車輪松や岩皴に畠山本や東博本の山水図に通じる筆癖を示しつつ、構図や筆致にこなれなさや全体のバランスを崩す過多な近景描写を含み、周文様式が散発的に表れた早期の楊月画というべき特徴を示す。なお近世の画伝類は、楊月を周文のほか雪舟に学ぶとする。現存する楊月画に雪舟様式を明確に示すものは見当たらないが、彼が薩摩出身と伝承される点、後継世代の南都画人である鑑貞が雪舟画との類似を指摘される点を鑑みるに、やや注意をひく。他に南都文化圏との関係で語られる同時代人物として、珠光を名乗り、一休宗純への参禅で名高い侘び茶人、珠光と同一人物とみなされる画人がいる。茶人珠光は『山上宗二記』以来、南都称名寺の浄土僧で東大寺から眉間寺近辺に屋敷を構えたと伝えられ、一休との関わりを経て晩年には下京四条に京都屋敷を構えてそこで没したという。現在、珠光落款のある遺品のうち最も考慮すべきは、ややつぶれた特徴的な鼎形印「珠光」を捺す「破墨山水図」(野村美術館蔵)と、同形の印を捺す夏珪様の楷体淡彩画で落款に「獨爐軒珠光」と茶人風の名乗りをする「漁村夕照図」(三井記念美術館蔵)〔図5〕で、前者は相国寺僧、景徐周麟の詩を画人自ら転記するなど京都の禅林との関わりを示唆する(注11)。両作は賛の書風が若干異なり、また対照的な表現技法を用いることから画風の同一性について検討するのが難しいが、少なくとも作期はいずれも室町時代に遡り得る。後者は同じ祖本をより質高く写した戯墨「山水図」(東京国立博物館蔵)〔図6〕があり、画人珠光とは、唐物絵画の模倣をしやすい立場にある技術的にはやや未熟な在野画人と考えられ、その立場は楊月に類するところがある。画人珠光が茶人か、また絵の制作地や受容地が彼の故地と同じく南都であったかなど不明点が余りに多いが、その可能性を若干ながら含む例として付言しておきたい(注12)。■南都の鑑貞楊月や珠光印の画人は、15世紀末から16世紀初頭において周文派の作例や唐物絵画をやや散発的ながら注意深く学んで模倣する傾向を示し、正系様式の周縁部を行き来した人物と位置付けることができる。それは画史類に示される、南都や南山城といった地縁の伝承と併せて、中世の漢画人の一つのあり方として首肯されるところがある―450――450―

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