が、残念ながら両者には実際に在地での作画活動を跡づける遺品や資料がない。この点で類似する特徴を備えつつ、作品や同時代記録からその具体的な活動をわずかながらも想定し得るのが鑑貞である。鑑貞については、専論は無いものの少なからぬ作品紹介があり、見出された大よその作例や基本的な画歴については特に島尾新氏の文にまとめられている(注13)。近世以前に遡る資料で最も詳述するのはやはり『本朝画史』で、典拠は記さないものの他に知り得ない情報を載せる。僧鑑貞、号墨溪、叙法眼、世謂奈良法眼也、畫法師周文、蓋於人物也、粗蹈南宋梁楷之蹤、筆法細而不詳、草而成者也、畫屏施淡彩、設水墨、而不用濃色、或曰、本律僧而住南都招提寺總持坊このうち号を墨溪とするのは大徳寺の曾我派との混同であることが指摘され、17世紀時点で情報に錯綜があったとみられる。法眼の叙任は記録や現存作品中では確認できず、これが僧としての事績なのか、画人としてのそれかも明確ではない。ただし『多聞院日記』天文13年(1544)の条に、多聞院英俊(長実房)が興福寺の学僧である春覚房の自坊(坊舎の名は不明)に赴き、同寺にいた「カンテヰ」に屏風絵を依頼する記事がある(注14)。英俊は恐らく仲介者で、制作がしばし不調であったのか「生山(不明)」なる人物に詫びを入れるが、14日後には無事完成をみたらしい。制作期間が短いところから、恐らく漢画系の作例であろう。春覚房へ参シ、カンテヰニ屏風之絵誂之了(『多聞院日記』天文13年6月2日条)屏風絵生山ニ侘候處出来了、祝著く(『同』同年6月16日条)この記事の登場人物が鑑貞を指すとすれば「奈良法眼」の通称、また末尾に記される唐招提寺總持院の律僧であることなど、南都に関わる情報は何らかの根拠ある資料に従ったものと想像される。カンテヰの顧客である興福寺はこの数年後、寺内の儀礼用に狩野元信「四季花鳥図屏風」(白鶴美術館蔵)などを手配して用いている(注15)。カンテヰはこうした需要に在地で応え得る貴重な存在であったはずで、16世紀の時代性を思わせる鑑貞画の明るい墨色やよく整理された簡潔な構図を踏まえるに、日記の登場人物が鑑貞当人である可能性はかなり高いだろう。なお鑑貞と同じく南都文化圏で笠置在住とされ、非禅宗系の画僧の可能性がある楊―451――451―
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