鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
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月が楷体と行体、双方の筆法による多様な画題の作例を遺し、またその中に禅宗祖師図や禅僧の着賛品を複数含んで京都の禅林社会との深い関わりを示唆するのに対し、鑑貞画は天神図などの人物図や花鳥図が少数あるものの、ほとんどが小ぶりな夏珪様の楷体山水図、特に瀟湘八景図で占められ、画僧にも関わらず仏画は一つも知られない。うちやや目立つ数点の天神図は、例えば南都でも極めて盛んであった連歌などと関わるものであろうか(注16)。この偏向性の原因としては顧客の性格が想定され、絵の依頼者はごく限られた機会に用いる座敷飾り用として以上のものを彼に求めなかったのかもしれない。目下、確認されている鑑貞画には年紀や年齢書を伴うものは見当たらず、具体的な活動期は先述の通り天文13年に存命が示唆されるのみである。なお現在、正木美術館に所蔵される鑑貞印「達磨図」には、上部に天玄常格なる禅僧による文亀3年(1503)付けで絵を明兆画と極める一文が貼り継がれており、これは鑑貞画に付属する中世の文字情報として唯一のものである。字配りは賛文風で、末尾に印章を伴うものの偈頌はなく、当初から別紙の文書ないしは掛軸の総裏墨書であったのを改装時に付加したとみられる。祖達磨大師之尊像、明兆典士筆跡也、丹州万年山圓通寺之常什也、其昔正法院殿宗傳禅者寄進也文亀三季八月十五日 住持比丘天玄常格拝達磨図は文亀3年時点で丹波ないしは丹後にあった万年山圓通寺(不詳)の什物で、正法院殿(号宗傳、不詳)の寄進品という。ただしこの時、既に古画とみなすべき状態であったならば、『多聞院日記』に現れるカンテヰの活動期である天文年間とは齟齬がある。実際の絵とは達磨図という画題が共通するが、書付が本来これに付されたものとも確言できず、鑑貞画の流通を考える上で興味を惹かれる文章だが、画人当人に関する一次資料に含めることは難しい。先に触れた通り、鑑貞画は一定数が現存するのに対して禅僧による着賛品がほぼない。禅宗系画題としても先述の「達磨図」の他に「寒山図」を数える程度で(注17)、彼は当時、水墨画の最大の受容層であった禅林との接点は非常に少なかったのかもしれない。こうした作品の残存状況も、南都のごとく一定の文化人を擁する土地で、在地に根差した画人として地道に活動した彼の立場を傍証するものといえようか。―452――452―

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