本氏旧蔵の右幅には阿弥派を思わせる造形感覚が混じるが、画面中央まで伸び上がる近景の2本の主木は先述の「山水図」〔図8〕などと同じ定型的な周文系モチーフで、構図と併せて鑑貞が周文派をよく学びつつ、さらに諸流派の図様や形態感覚とも併せて自己の様式へ昇華させたことを思わせる。濃墨をわずかなアクセントのみに抑え、淡墨を主体とした透明感ある筆線、藍や茶系による淡雅で明るいグラデーションの色感は先行する楊月画にもみられ、両者に関係があったかは興味をひくが、鑑貞画に楊月画の摂取をうかがわせる図様はなく、この明快な色調自体は狩野派や式部輝忠など戦国期の他の画人たちにも通じる同時代性の発露であろう。その上で、従来しばしば指摘されてきた雪舟「秋冬山水図」(東京国立博物館蔵)と鑑貞「山水図」(バーク・コレクション蔵)の間における特徴的な構図の顕著な一致や、雪舟画と鑑貞画における山水楼閣モチーフに共にみられる、強く直線的で明るい筆触や規矩の多様といった要素は、こうした鑑貞の様式形成の諸相を踏まえつつ改めて検証すべき問題である。畿内には様式源が複数存在し、鑑貞のような京都の周縁域にあって様々な源にアクセスしやすい画人は恐らくその影響が複相的に表れやすく、その整理作業は我々が通常、周文様、阿弥派様、雪舟様の主な特徴とみなす要素を再検証する作業でもある。伝雪舟「東福寺伽藍図」(東福寺蔵)をはじめ(注20)、雪舟様に似て、規矩を用いた太線による伽藍表現を用いつつも雪舟流と即断することを躊躇させる作例はあり、またやはり雪舟様との類似性につながる、鑑貞が好む幾何学的な形態感覚や線の肥痩や擦れを強調しない明朗な筆致は、15世紀中後半の周文直弟子世代に遡る「四季山水図屏風」(大和文華館蔵)から、小栗派系ともいわれる蔵山印「四季山水図屏風」(ボストン美術館蔵)、伝小栗宗丹「周茂叔愛蓮図」(根津美術館蔵)〔図13〕に至るまで周文系の後継作例の中にも近いものを求め得る(注21)。在地画人であることが不明瞭な楊月や珠光と異なり、鑑貞は恐らく確かに南都の在地画人として活動した人物であった。残念ながら関連資料は極めて少なく、弟子が存在したか、その様式が他の在地画人に広がり得たかも不明瞭だが、画風の振幅を今後より細かに検討すれば本人と周辺作の峻別、鑑貞派とよぶべき小さな絵師集団の存在も想定することが出来るかもしれない。なお同時期の南都で類似する仕事を請け負える絵師として、他に発心院(中川寺塔頭で当時は興福寺末)の座敷絵を描いた「伊賀ニシキ藤衛門」なる人物も記録されている(注22)。伊賀が伊賀地方の関係者であることを示すとすれば、南都における漢画制作は南都文化圏から画人を広く募る程度に需要があり、地域一帯で吸収しきれない特に重要な画業を都の狩野派らが手がけたと想像される。鑑貞は周文派や阿弥派など複数様式を摂取しながら、こうした需要を脇―454――454―
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