鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
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⑾「2漁村夕照図」解説(『三井文庫別館蔵品図録三井家の絵画』三井文庫、2002年)神津朝夫「珠光伝の再検討」(熊倉功夫編『遊芸文化と伝統』吉川弘文館、2002年)山田哲也「茶祖珠光跡目宗珠と大徳寺僧明窓宗珠」(竹貫元勝博士還暦記念論文集刊行会『禅とその周辺学の研究』永田文昌堂、2005年)⑿一休のいた真珠庵周辺にいた珠光については、「珠光庵主」「東山殿家従」(「1113真珠庵過去帳」『大日本古文書家わけ第十七大徳寺文書別集/真珠庵文書之八』東京大学史料編纂所、2013年)とする記録がある。⒀島尾新「山水図」(『國華』1335、2007年)⒁記事の存在は以下に示される。林進「鑑貞筆瀟湘八景図画帖」(『季刊美のたより』44、大和文華館、1978年)⒂興福寺では儀礼用に相当数の屏風を必要とし、例えば天文8年には若宮田楽のため「屏風ミカキ付三双半、惣合十三流」が調達された(『多聞院日記』天文8年11月27日条)。天正9年(1581)には筒井順慶を通じて狩野松栄「四季花鳥図屏風」(白鶴美術館蔵)が制作され公物となっている。⒃楷体着色の「束帯天神図」(個人蔵)、水墨のごく小さな「渡唐天神図」(鉄舟寺蔵)などがある。畑靖紀「鑑貞筆 春夏山水図屏風」(『國華』1480、2019年)⒄守屋家旧蔵で、清水寺の橋勧進の芸能者として世阿弥の謡曲に謳われる東岸居士も鑑貞画として紹介されるが、数珠を持物とする以外は通例の寒山図の図様である。記録上、14世紀の元画に数珠を持つ拾得図が著録されるといい、類品を描いたものか。なお興福寺では道釈人物画も座敷飾りとして用い、例えば長勝坊が多聞院より「寒山図」を借用している(『多聞院日記』永禄9年6月19日条)。「鑑貞筆東岸居士図解」(『國華』561、1937年)江崎ゆかり「曾我蕭白筆《寒山拾得図屏風》(個人蔵)について」(『学習院大学人文科学論集』25、2016年)⒅「寿老人図」は鑑貞の個人様式が明瞭にみられないため、別人作に印を後捺した可能性も否定できないが、上部の長い枝ぶりや強く湾曲する寿老人の釣り目などには鑑貞印「束帯天神像」(個人蔵)に通じる形態感覚もあり、注意深い検討を要する。⒆森道彦「68山水図鑑貞筆」解説(『鑑真和上と戒律のあゆみ』展図録、京都国立博物館、2021年)⒇森道彦「174東福寺伽藍図」解説(『東福寺』展図録、東京国立博物館・京都国立博物館、2023年)鑑貞によるバーク本が雪舟画を意識して描かれた可能性それ自体は高いと考えられ、また雪舟様の岩皴やモチーフを意識した丹後の在地に伝来する「等楽寺縁起絵巻」(竹野神社)などを鑑みるに、畿内一帯に雪舟様式が根付いたのは事実と思しい。伝周文「水色巒光図」(奈良国立博物館蔵)の図様を元にする「山水図」(根津美術館蔵)〔図14〕は鑑貞画と類似点が多いが、遠山の筆致や鑑貞画に特有な点苔が少ないことなどから、別人作とみておきたい。『多聞院日記』天文13年9月15日条―456――456―

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