鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
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制されている。一方で、第一次世界大戦勃発後に着手された《エリザべト・レーデラーの肖像》(1914-16年)〔図3〕では、小さな人物群がモデルの背後を取り巻くように配置され、モデルの衣装につながる装飾部分には龍袍と呼ばれる清朝の官服に由来する図案が借用されている(注2)。さらに、1916年制作の《フリーデリケ・マリア・ベーアの肖像》〔図4〕では、モデルを覆い尽くすようにびっしりと隙間なく中国兵士の群像が描き込まれている。上記に挙げたクリムト後期の女性肖像画における東洋的な要素は、これまでにも度々先行研究の中で指摘されている。例えば、《オイゲニア・プリマヴェージの肖像》については、用いられた色の組合せとオーストリア応用美術館所蔵の中国の壁面装飾用のタイルの色彩との関連が指摘されている(注3)。さらに、《エリザベト・レーデラーの肖像》と《フリーデリケ・マリア・ベーアの肖像》に関しては、背景の図像の源泉についてしばしば言及されてきた(注4)。報告者も、この二点の肖像画における中国的なモチーフについて具体的な分析を試みている(注5)。この20年ほどの間に、クリムトの東洋美術への関心と作品への応用については、ジャポニスム研究を中心に随分進展している。絵画制作の上で多大な霊感を与えた、クリムト個人の東洋美術のコレクションについても、現存するものについては詳細な調査が行われている(注6)。その一方で、中国美術をはじめとする日本以外の非欧米圏の美術からのクリムト作品の影響については、まだ具体的な調査が進められていない状況と言える。とりわけ、晩年の肖像画の中では、ユダヤ系コレクターの所有物であったことも影響して、第二次世界大戦中に焼失したものや行方不明となったものが少なくない(注7)。この点が、晩年の作品群の調査研究を困難にさせている要因の一つであろう。本稿では、2022年にウィーンで行った調査に基づき、これまで看過されてきた最晩年の作例に焦点を当てる。さらに、制作当時の作家の人的交流とその相互関係についても考慮しながら、クリムトの晩年の肖像画制作の文化的背景を解きほぐそうとするものである。2.最晩年の作品《扇を持つ女》クリムトは1918年2月6日、脳卒中で病床に臥す最中に、スペイン風邪による肺炎が併発し亡くなった。没後まもなく、写真家モーリッツ・ネールが彼のアトリエで撮影した写真には、制作途中の二点の絵画が写っている〔図5〕。右側のイーゼルに架けられている作品は《扇を持つ女》(1917年)〔図6〕、その奥にある中央の大きなキャンバスは《花嫁》(1917-18年)と題された作品〔図7〕である。後者は未完の作品で、―461――461―

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