鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
473/604

この明度の高い黄色の背景は、先に制作された《オイゲニア・プリマヴェージの肖像》の背景を彷彿とさせる。とはいえ、このプリマヴェージ夫人の肖像では画面右角の小さな枠内に鳳凰の図像が描かれることで東洋的な要素が抑えられているのに対し、《扇を持つ女》では背景全面に花鳥文様が散りばめられている。画面の中央で女性の輪郭がピラミッド型に配置されているという構図や、鮮やかに彩色された背景に花鳥文様という要素から、少し前に制作された《女友達Ⅱ》(1916-17年)〔図8〕のヴァリエーションと位置付けることも可能だろう。また、鳳凰は他のクリムト作品にも登場するモチーフであり、中国美術の文脈では「女性性」と強く関連づけられる図像である点にも注目すべきである(注14)。本作品や他の後期作品の制作背景には、第一次世界大戦中に設立された機関である「ウィーン文化研究所」の存在が大きく関わっていると、フェリンガー氏は指摘する。この機関は研究機関であると同時に、当時の帝国末期のオーストリアにおいて、平和主義かつ社会的な平等を目指して「世界文化」の発展を理念として掲げたプロパガンダ組織でもあった。この機関に関する資料は日本語のものはおろか、オーストリア現地で残された資料も非常に限られる。今回文献資料に基づいてこの研究機関の全体像を捉えるとともに、クリムトをはじめとする世紀転換期のウィーンの芸術家たちにこの研究所がいかなる影響を与えたのか、その概要を整理したい(注15)。3.エルヴィン・ハンスリクの「ウィーン文化研究所」1915年の春、人類地理学者のエルヴィン・ハンスリクは、東洋学者エドムント・キュットラーと工業家のヴィクトル・リッター・フォン・バウアー博士と共に、ウィーン文化研究所(Wiener Institut für Kulturfolschung、以下「文化研究所」とする)を創設した。第一次世界大戦の真っ只中に立ち上げられた本機関は、国際間の協調のために活動し、紛争を終結させるという理念を背負っていた。その活動を支える前提条件が、国家における差別や民族間の相互不理解を克服するため教育活動によって世界文化の総体についての理解を深めるというものであった(注16)。ハンスリクが掲げたこの理念は、当時の不安定な多民族国家であった帝国末期におけるオーストリアの政治的危機を反映してのことだろう。彼にとってその目標を達成するために必要不可欠だったのが、学術研究や知的交流、そしてその実践場としてふさわしい組織の結成であった。彼の構想では、図書館や学校、伝記的アーカイブ、出版社、美術館なども設立するつもりであったという(注17)。文化研究所の活動は、数々の講義に加え、主に積極的な出版活動に焦点を当て―463――463―

元のページ  ../index.html#473

このブックを見る