たものだった(注18)。計7冊の叢書が研究所の自費出版で発刊されている。さらに1916年2月には「東洋・オリエント研究所」と称する下部組織も設立され、同様に一連の出版物を刊行した(注19)。注目すべきは、この文化研究所の存在は当時のウィーンの前衛的な芸術家たちを強く惹きつけていたことである。この機関の参加者および会員として、次の人物たちの名前が挙げられている。グスタフ・クリムト、ヨーゼフ・ホフマン、オスカー・ココシュカ、アドルフ・ロースなど、錚々たる面々が文化研究所の活動に関与していた(注20)。文化研究所は私設の研究機関であったが、そのスポンサーとなっていたのがリッター・フォン・バウアーであった。彼はブルノ出身の工業家であり大土地所有者であった。同地で砂糖工場を経営し、北モラヴィアに自身の城をもち、一等地であるウィーン1区に邸宅を構えるほど富を形成した。彼はアメリカ、オーストラリアや東アジアを何度も旅しており、オーストリア貿易省とも繋がっていた人物であった(注21)。前衛思想を持つ芸術家と緊密な関係をもち、ココシュカやエゴン・シーレが彼の肖像を描いている(注22)。ハンスリクとバウアーは共に人類地理学に関心を抱いていた。バウアーはこの分野の研究の重要性を感じ、およそ3年間にわたっての「文化研究所」の運営にかかる総費用を出資するなど、経済的な支援を行った(注23)。なお人類地理学とは、人間と地理的な条件との関連性を探求し、一方ではその地域を形成するものとして、他方では地理的環境に依存する存在として、それぞれの民族を主に比較研究によって分析する学問分野である。ハンスリクと最も緊密な関係を築いていた作家の一人が、シーレである。シーレは文化研究所版元となるハンスリクの著作に掲載予定の挿絵を手がけている。その『人間の本質』と題された1917年出版の書籍は、人類地理学に観相学や類型学の手法を組み合わせることで得られた独自の知見をまとめたもので、人種の優劣を相貌から読み取ろうとする趣旨のテキストに添えられるはずの挿絵であった(注24)。実際の書籍には収録されなかったものの、このシーレの素描は両者の結びつきを端的に示している。両者の接点の契機となったのが、1917年9月にストックホルムで開かれた「オーストリア芸術展」であった。この展覧会はもともとオーストリア外務省が後ろ盾になったもので、戦時下にもかかわらず芸術的創造性を強く発揮するオーストリア帝国の現代美術を中立国スウェーデンの首都にて紹介する、文化的プロパガンダ政策の一環ともいえる企画であった(注25)。この展覧会は、ストックホルムで当時開館して間も―464――464―
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