鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
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ないリリエバルク美術館を貸し切って開催され、全体のキュレーションは建築家およびデザイナーのヨーゼフ・ホフマンに一任された(注26)。クリムトや彫刻家のアントン・ハナクなどベテランの作家から、シーレやココシュカ、アントン・ファイスタウアーなど新進気鋭の若手作家の作品も出品された。クリムトに関しては13点の油彩画が展示され、風景画4点、人物画が9点という構成がなされた。《エリザベト・レーデラーの肖像》や《フリーデリケ・マリア・ベーアの肖像》などの中国的要素の色濃い作品も展示された。同年の9月4日、展示の合間に報道機関に向けた内覧会が行われた。この時に撮影されたホフマンを中心とするオーストリア側の展覧会関係者の写真には、ハンスリクの姿も確認できる(注27)。ホフマンの隣に立つハンスリクは、記者からの政治的な質問に対するスポークスマンとしての役割を果たした。ハンスリクは展覧会の関連行事としていくつかの講演を会期中に開催し、シーレも聴講している(注28)。講演の中でハンスリクが主張したのは、オーストリアが調和のとれた多民族国家であり、帝国内の各民族の間でくすぶるナショナリズムに脅かされながらも、人類にとっての平和な未来のモデルを体現しているということであった。彼は展覧会に出品した芸術館たちに言及しながら話を進め、なかでもクリムトは西洋と東洋の文化的本質との「仲裁者」であると評価した(注29)。ハンスリクのイデオロギーを支える基盤的思考は、彼の1917年の著作『オーストリア:大地と精神』の中で示されている(注30)。この書籍の中で、ハンスリクは「西欧」の文化的覇権を否定し、「東方の人々」の自立的な発展の必要性を強調している(注31)。そして「文化研究所」設立の大きな目的は、「人々との間に共通しているもの、人々を結びつけているものの本質を探求する」ために、「東方とオリエントの世界関係についての理解を深める」ことであった。ハンスリクによれば、この研究所は「オーストリアの地に住むさまざまな民族が東西の狭間に橋を架ける存在となる」ことを支援することを使命としていた(注32)。ある種理想主義的とも言えるハンスリクの理念がクリムトの後期作品にも反映されていると言えるのではないか。なぜなら、西洋的な絵画伝統と東アジアにおける絵画的伝統が同等に調和しているからである。現時点で資料から読み取れるのはハンスリクによるクリムトへの評価のみであり、クリムトがハンスリクの思想に対して具体的にどのような反応を示したのかまでは検証できていない。しかしクリムトも、ハンスリクと方向性を同じくしたオーストリア=ハプスブルク帝国の理想的ヴィジョンを抱き、それを一種の図像プログラムとして自身の作品の中で表現することを創作上の動機として強く意識していたのではな―465――465―

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