注⑴クリムトの1910年ごろからの色彩とマチエールの変化については、当時のパリで隆盛しつつあったフォービスムの影響が指摘されている。この指摘は、1909年のクリムトのパリ旅行での体験に依拠している。Tobias G. Natter (Hg.), Klimt persönlich: Bilder-Briefe-Einblicke, Wien, いだろうか。もちろん、彼の晩年の肖像画の多くはパトロンやコレクターによる注文制作であることに留意せねばならない。作家の政治的・文化的イデオロギーを肖像画というジャンルの中で全面的に反映させるのは、本来避けられがちだろう。しかし、ハンスリクやシーレなどをはじめとするサークルには芸術家や美術教育者だけでなく、クリムトのパトロンとなった中産階級のウィーン市民層も深く関与していた。特に、芸術後援者として世紀末ウィーンの主要人物であったユダヤ系オーストリア人富裕層は、生粋のオーストリア人以上に教養ある「オーストリア人」であろうとし、同時にコスモポリタンであった。彼らが芸術家や研究者たちの理想とする帝国論や世界文化論に対して、シンパシーを抱いていたことも十分考えられるのである。4.おわりにクリムトの最晩年の作品は未完のものが多いため、一部の作品は背景の装飾が描き込まれていない。したがって、一見すると東洋的な図像が用いられなくなったように思われる。しかし、絶筆とされる作品である《花嫁》の細部を注視すると、一点の中国的モチーフが目に飛び込んでくる。それは、画面右側の女性のスカートの装飾として描き込まれた一匹の獅子である。人物像としては未完成ながらも、この部分はきわめて綿密に描画されているのがわかる。この図像は、四年前に完成された《エリザベト・レーデラーの肖像》で用いられた二匹の獅子のモチーフと酷似している(注33)。すなわち、クリムトが自身の過去作に用いた中国的図像を再利用しており、死の間際まで中国美術への関心を持ち続けたことの証左と言えよう。クリムトの東洋への関心が亡くなるまで薄れず、東アジア美術の要素を作品に取り入れ続けたのには、ウィーン文化研究所に代表されるような文化的、思想的サークルとの関わりも大きく影響しているだろう。本稿では、最晩年のクリムトの人物画に端を発し、その制作の思想的背景と大きく連関する人物たちとの交流に焦点を当てて進めた調査報告である。ただし、ここで取り上げた内容はクリムトの晩年の活動の一側面に過ぎない。今後は、作家の芸術サークルに関わる人物の相互関係をより精緻に検証し、個別の作品研究に繋げていきたい。―466――466―
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