鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
486/604

《ミュンナーシュタットの祭壇》の着彩とその後のファイト・シュトースりの実」が、15世紀を通じてネーデルラントに普及したロザリオの先端部分に取り付けられていたことに注目したファルケンブルクは、観者(祈祷者)の視覚には曖昧模糊とした状態で捉えられるこのイメージこそ、祈りに際して、キリストの生涯やその憐みについて瞑想しようと努める彼らの想像力を助けるものであったと指摘する。彼によれば、祈祷中の瞑想はまさしく視覚のみならず触覚や嗅覚を通して想像力を刺激しながら行われるものであった(注15)。ここにおいては、像に聖なる存在の実在感を付与するのに効果的な彩色はあまり意味を持たない。15世紀後半から徐々に広まっていったモノクローム仕上げの大規模な木彫祭壇の存在は、このような祈祷の習慣とともに展開されていったものかもしれない。「祈りの実」の多くはネーデルラントに残るが、ヴァザーリの言葉が示唆するように、それらはヨーロッパの他地域にも広がっていたと考えられる。個人の祈祷と聖堂における典礼が異質なものであることは確かだが、聖堂に設置されたこれらの木彫祭壇も、キリストや聖人の聖性や聖体の神秘に思いをめぐらそうとする信者たちの願いに応えるものだったのではないか。推測の域を出ない見解ではあるが、精緻に仕上げられ、そして場合によってはきわめて高価な染料を塗布されたモノクロームの祭壇彫刻は、目や唇に施された必要最低限の彩色とともに、信者の視覚と想像力に働きかける効果を持っていたように思われる。ファイト・シュトースは1504年、娘婿のヨルク・トルマーの仲立ちにより、ニコラウス・モリトーとヨハン・ケーニッヒ・フォン・アルンシュタインから依頼されて、《ミュンナーシュタットの祭壇》に着彩し、聖キリアンの生涯を描く仕事にとりかかった。着色そのものは1505年に行われた(注16)。1477年から1496年に滞在したクラコフで彼が手がけた《聖母マリアの祭壇》(1477-89年・聖母マリア聖堂)は見事な彩色と絵画をともなっていた。おそらくこの制作が、すでにリーメンシュナイダーが完成させていたミュンナーシュタットの教区聖堂の祭壇に彩色をほどこし、金箔を貼り、そして新たに聖キリアンの生涯の諸場面を両翼パネルの外側に描く注文につながったのであろう。リーメンシュナイダーがモノクロームで仕上げた木彫祭壇がポリクロームに変更された理由は判明していない。祭壇彫刻にモノクロームを求めるのか、あるいはポリクロームを求めるのかは、それらを管理する教会や聖職者の考え方によるところが大きかったであろう。リーメンシュナイダーが、ミュンナーシュタットののちローテンブ―476――476―

元のページ  ../index.html#486

このブックを見る