ルクやクレクリンゲンで精緻なモノクローム仕上げの祭壇画を繰り返し制作していた1500年前後の時期には、同時に旧来の彩色された木彫祭壇も各地で制作されていた。ティーフェンブロンの教区聖堂の祭壇に1520年ごろになってあらためて設置された「マグダラのマリアの変容」をあらわす木彫像もポリクローム仕上げであった。《ミュンナーシュタットの祭壇》の彩色に関しては、1501年に同市の住人であるカタリーナ・キルヒャーが、この祭壇への着彩に対して遺産を残す旨を記した記録が残っており、また、1504年6月に他の市民がこの着彩に対してその遺産を寄進している。このことは、当時、祭壇は通常翼パネルが閉じた状態で設置されていたため、その内部やパネルの内側の精緻な木彫像や諸場面を日常的に目にすることができなかった事情が関係している可能性が指摘されている(注17)。ファイト・シュトースに課された仕事のうちで特に重要だったのは、人々が普段目にしていた手付かずのまま残された翼パネルの外側に、聖キリアンの生涯の諸場面を描くことだったのかもしれない。とはいえ、この仕事を通じてシュトースが得たのは、むしろリーメンシュナイダーによる当初の彫刻になされたモノクローム仕上げの効果だったのではないか。シュトースは1500年ごろからもっぱらモノクローム仕上げの木彫を制作するようになる。冒頭に示したサンティッシマ・アヌンツィアータ聖堂の《聖ロクス》は、シュトースによるモノクローム仕上げの追求の一つの成果なのである。それらの木彫像は、フィレンツェ出身のラファエロ・トッリジャーニのために制作された《ラファエルとトビアス》(1516年・ニュルンベルク、ゲルマン国立博物館)が示すように、クラコフやニュルンベルクで知己を得たイタリアの人々をも魅了していた(注18)。興味深いことに、シュトースは数々のモノクローム仕上げの木彫像を制作していく過程で、ツゲ材によるわずか20cmの聖母マリアの小像を制作していたとも考えられている(1510-20年頃・ロンドン、ヴィクトリア・アンド・アルバート美術館)〔図7〕(注19)。この彫刻家によるモノクローム仕上げの彫像の生成については、1500年前後の南ドイツからネーデルラントの地域の彫刻史全体の流れにおいて再検討されることが望ましいのではないか。そしてまたその材料の選択や表現的効果は、件の聖ロクス像がサンティッシマ・アヌンツィアータ聖堂内のこの聖人に捧げられた礼拝堂において、おそらくは壁に穿たれた壁龕をともなう祭壇上に置かれていたことからも窺われるように(注20)、宗教的実践における効果と強く関連していたであろう。また聖ロクスはペストから人々を守る守護聖人であり、サンティッシマ・アヌンツィアータ聖堂は14世紀以来対ペスト像を祀る聖堂として人々の信仰を集めてきた場でもある(注21)。今回の調査では明らかにすることができなかったが、シュトースの《聖ロクス》の設置―477――477―
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