鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
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長安年間(701~705)に中国式の塔に改められ(注4)、その後明・清・民国期に重修を受けているが(注5)、先述の文字列の方向からしても当初からこの配置であったことは間違いないだろう(注6)。両碑の碑頭にはほぼ同様の図像からなる7体、すなわち内側から如来倚像1体、比丘立像2体、菩薩立像2体、天王立像2体が浮彫され〔図1、2〕、碑下部に天人像3体が浮彫されている。これら碑文上下の浮彫像は小像ながら、太宗・高宗という二代皇帝の碑に表される上に、遺品が少ない初唐期長安の造像年の判明する作例として非常に重要である。しかしながら岡田健氏が着目し(注7)、久野美樹氏が概説で取り上げる以外(注8)、日本での研究は少ない。以下ではこのうちの天王像の概要に限ってやや詳しく見ていきたい。序碑の左側(向かって右側)の天王像〔図3〕は、2体の邪鬼の上に立つ。左脚は片方の上半身を起こし頭をやや屈める邪鬼の肩に上げ、右脚はもう片方の仰向けの邪鬼の腹の上に垂下して腰を捻って立つ。左手は腰に当て、右手で三叉戟の叉部を上から握る。頭光を表し、髻を結いつつも細かくウェーブがかかった波状髪を肩に下ろし、頭飾をつける。顔は左の如来像側を向き、閉口する。上半身には籠手、下衣の上に両肩に肩喰を表し、左右に分かれ中央に突起する円形の飾りのある胸甲と、首に頸護を着け、逆Y字状の甲締め具を渡し、腹甲を着けて帯を締める。腹甲には上から帯を噛み、牙と鼻のある獣面の帯喰をあらわす。胸甲は肩上のベルトにより背甲と連結される。下半身では上から中央合わせの腿甲を左右に開き、そこからやや出る程度の短い裙をフリル状に表し、脛当てを着けて沓をはく。脛当ては数本のベルトをふくらはぎに渡す形式である。序碑の右側(向かって左側)の天王像〔図4〕は、基本的には右側の天王像と左右対称形であり、髻を結いつつも髪を下ろさず疎ら彫りによって直毛の毛筋をあらわし、顔は正面を向いて開口する点が異なる。また右側天王像の帯喰は左側像のものよりも大きく、帯喰が腹甲そのものを構成していると言ってもよい。序記碑の二天王像はほぼ序碑のものと同形で、面部が失われている。差異は序記碑では頭光に縁が表される点のみである。以上、序碑および序記碑の形状を述べてきた。片手を腰にあてて腰を捻る体勢や、短い裙に数本のベルトを表す脛当てを着ける甲制は、隋末唐初といわれる敦煌莫高窟第380窟東壁の壁画二天王像〔図5〕にすでにあらわれているものを、よりダイナミックに発展させたものと考えられる。しかしこれらの二天王像が二体の鬼に乗る点、左側像が波状髪を下ろす点、そして両肩・腹部に獣面があらわされるという点で、―484――484―

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