から波状髪を下ろし開口し右手に宝棒を執る天王像(⑥)、髪を結い上げて閉口し斜め上方に向け弓を射る天王像(⑤)、波状髪を下ろし閉口して内側を見遣り金剛杵を左手に執る天王像(④)が、それぞれ三曲法をとって立つ。獣面による帯喰装飾は、①~⑦及び⑨像に施されている。碑座正面・背面の左側像(①⑦)では牙と鼻を有する獣面が帯を上から噛み〔図12〕、右側像(③⑨)では鼻の上に突起をあらわし、眉が長く伸び端部で上側に湾曲している〔図13〕。④⑥像は、左右像は碑座正面および背面と類似する獣面を着けるが、注目されるのは弓箭を構える⑤像の帯喰である〔図14〕。この獣面には鼻上の突起の上にもう一つ突起があり、その左右から二つの弧を描いて内側に湾曲する角が生え、上方の甲締め具の下を通って絡む。両角の基部内側には二つの瘤状の突起と、一つの角状の突起が表されている。この内側に湾曲する両角を有する獣面は、次に述べる龍門石窟奉先寺洞多聞天像の帯喰と類似する。⑷龍門石窟奉先寺洞多聞天像(上元2年〈675〉)龍門石窟奉先寺洞は、中尊の高さが17mにもなる龍門石窟の最大窟であり、一仏二弟子二菩薩二天王二力士像からなる。中尊盧舎那仏坐像の台座東面南側に刻まれた調露二年(680)の「河洛龍門山之陽大盧舎那像龕記」により、高宗の咸亨三年(672)から上元二年(675)にかけて、武則天が「脂粉銭二万貫」を支出し、高宗が額を記して成ったことが分かる(注12)。北壁と南壁に一体ずつの天王(龕記では「神王」)像が彫出されるが、右壁の天王像は胸から首にかけてと左臂、足先と邪鬼が残るのみである。両天王像は首輪と裳を着ける一体の邪鬼の上に、片手を腰に当て、片脚を邪鬼の頭に上げて立つ。このように本像は基本的に大雁塔聖教序、序記碑の二天王像や同州聖教序碑の正面・背面の左右像と共通する。ただし捻り帯の下に帛帯をU字形に垂らしその下に円形の甲と長方形の甲を二重に着ける点や、腿甲が左右に開かない点、多聞天像が中尊に向ける右膝の裙がめくれ上がるなどこれまで見てきた事例と比較して注目すべき差異も多い。なかでも腰帯下最下層の長方形の甲は後代日本のいわゆる前楯の祖型とも考えられる。この他、各所に多種多様な植物紋や施されるがここでは詳述しない。多聞天像の腹部には有角の獣面が表される〔図16〕。帯喰の獣面は肉食獣的な柔かい口唇から上歯牙を出して上から捻り帯を噛む。如意頭形の鼻、両眼、両耳を有する。耳の上は左右に角状に盛り上がり、その上部に内側に湾曲する角が二組表される。外側の角は先端内側に二つの瘤があり、内側の角にも各四つの瘤が表される。内側の角―486――486―
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