の間には眉間の突起と連続する形でスペード状の突起が三重にあらわされる。肩喰については北壁多聞天像には表されず、南壁天王像の残存する肩部に大きな鳥頭形とも見える肩喰が施されている(注13)。⑸龍門石窟万仏洞二天王像(永隆元年〈680〉)龍門石窟万仏洞は、窟頂にあらわされた蓮華の蓮弁と、入口左側に刻まれた銘により、永隆元年(680)に「大監姚神表」と「沙門智運」によって、「奉為天皇天后太子諸王」すなわち高宗と武則天およびその子達のおんために造られたことが分かる。曽布川寛氏はこの「大監姚神表」を女官、「沙門智運」を宮中の比丘尼と見て、万仏洞は武則天の意志のもと、宮中の女官と比丘尼を中心に営まれたとみる(注14)。万仏洞は高さ3.1mの方形窟で、正壁(西壁)に一仏二弟子二菩薩を彫出し、その反対側の門口壁である東壁の内側に北側270cm、南側272cmの天王像、東壁外側に力士像を刻む(注15)。それぞれ片手を腰に当て片足を上げる二天王像の体制は大唐三蔵聖教序、序記碑に始まる本報告で見てきたものと同様である。甲制は、基本的には奉先寺洞多聞天像から装飾を取り除き簡素化した形だが、下半身では前楯様の甲が無くなり、腿甲が中央で左右に開く点が新しい。腹部の獣面については北側像では、帯を噛まずに上下歯牙をあらわしている点がこれまで見てきた例と異なる〔図18〕。また南北両像の獣面ともに両角を表すが、その形状は奉先寺洞のものよりはるかに控えめで、北側像では上端に横に直線的に表した上に数瘤の突起を設けるだけである。ただし獣面左右には鬐様の形状が追加されている点は注目される。⑴~⑸の例の他に、西安博物院には隋代のものとされる帯喰・肩喰・膝喰を有する陶製武人俑が蔵される〔図18〕。しかしながらこの像は出土年(1985年)と出土地(西安市長安区)が判明するものの対応する発掘報告書が確認できない。また頭鰭を有する肩喰は盛唐期の武人俑にしか類例を見いだし得ない。そのため出土地や出土状況の精査を期し、ここでは考察の対象から外す。2.初唐期天王像帯喰装飾の性質⑴高宗・武則天周辺での限定的使用以上、初唐期の帯喰が表される天王像を列挙し、細部を確認してきた。各項目の冒―487――487―
元のページ ../index.html#497