鹿島美術研究様 年報第40号別冊(2023)
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頭に記した各石碑・石窟の概要からは、これらの作例がすべて、高宗および武則天と非常に近い環境で造られたことが分かる。肩喰については張士貴墓(657年頃)や鄭仁泰墓(664年)など陝西省出土の武士俑において大唐三蔵聖教序、序記碑建立直後の時代から見られるようになるが、帯喰は本報告で見てきた5例以外には確認できない。帯喰を表す天王像の図像は、現存遺品を見る限りでは大唐三蔵聖教序、序記碑において創始され、皇帝の周辺から出なかったものと推測できる。また宮大中氏(注16)や曽布川寛氏(注17)は一仏二弟子二菩薩に二天王を加える形式が龍門石窟においては龍朔元年(661)銘の韓氏龕を始めとして流行することに注目するが、この天王像を追加した形式は大唐三蔵聖教序、序記碑を端緒に長安において規範化し、これが龍門石窟にも及んだと考えられる(注18)。⑵大唐三蔵聖教序、序記碑の波状髪を下ろす天王像大唐三蔵聖教序、序記碑天王像においてこうした装飾がなぜ表されるようになったのか、という問題を考えるとき、大唐三蔵聖教序、序記碑の左側天王像およびが細かくウェーブのかかった髪を下ろしていることが注目される。このような波状髪を下ろす武人像は、キダラ・クシャン朝の銀貨にあらわされた国王像や、同じくキダラ・クシャン朝期のアフガニスタン・ハイル・ハーネ出土のスーリヤ像(4~5世紀・カーブル博物館蔵)〔図19〕が同様の髪型を示す。またキジル石窟の第189窟壁画中の菩薩形護法神像〔図20〕(6~7世紀(注19))にも同様の髪型がみられる。そもそも髪を下ろすこと、すなわち「被髪」は古代中国的価値観においては仙人や狂人をあらわす異常な髪型であり(注20)、『旧唐書』列伝「北狄・室韋」に突厥の制として「被髮左袵」が記されるように(注21)、異民族のものでもあった。被髪は初唐期においても異国的であり、さらに波状髪という特徴は西域的性質を強調するものであったと考えられる。⑶腹部に獣面をあらわす北朝末~初唐の類例腹部付近に獣面を表す武装形像の類例を探すと、西安出土のソグド人墓である北周・大象2年(580)の史君墓石堂正面の二神像〔図21〕があげられる。この二神王像には腹下の裙裾にではあるが獣面が表され、邪鬼の頭を噛む。また隋・開皇9年(589)の霊泉寺石窟大住聖窟門口二神王像のうち「迦毘羅神王」銘像〔図22〕は、史君墓像と膝の象頭と肩の獅噛という点で類似する。同像は、膝に象頭、二臂の肩部に肩喰、両胸に人面、そして腹部にも人面をあらわす。二臂に肩喰を表すのはこの像が―488――488―

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